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比喩表現なのか...謎

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お世話になっています。僕はこれまで、「お念仏は1日10回程度でいいだろう」と思っていました。何なら、1回でもいいと思っていました。ところが、あるお坊さんから聞いたのですが、「お念仏というのは、瞑想みたいなものだ」と言っていました。ただ手段が違うだけだと。瞑想では、呼吸や身体の感覚に集中することで、「今」に心を置きます。お念仏も瞑想と同じで、お念仏を唱えている時だけ「今」を生きることができると言っていました。自力の計らいというのも、瞑想でいうところの雑念なのでしょう。また、阿弥陀様や如来というのは、この世の大いなる働き(空、因果律)のことだと言っていました。浄土真宗はとにかく比喩表現が多いんだと。これらのことは本当なのでしょうか?もし、本当だとしたら煩悩を自覚する意味が分かりません。また、煩悩即菩提の概念もよく分からなくなってしまいます。僕は今まで本当に浄土(死後の世界)があり、阿弥陀様も実在する「人」だと思っていました。
しかし、内心では疑いを持っていました。南無阿弥陀仏と唱えれば浄土に往生でき、それが出来なければ地獄行きというのは疑問に思っていましたし、大宇宙の法則がなぜ「この人は浄土、この人は地獄」と判断するのかもおかしいと思っていました。もし、このお坊さんのいう通りなら、色々と納得できる部分がありますが、実際のところはどうなのか気になります。回答お願いします。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

脳死は人の死か?

脳死は人の死でしょうか?
脳以外の細胞は生きていますが。
しかし、臓器移植する場合は、法律上、脳死を人(ドナー)の死だと「みなし」、死人だと「扱って」良いのです。
科学的な真実とは別に、社会的な事実があります。
大乗仏教では、大乗経典が法律みたいなものです。
経典によると、念仏した人(往生極楽を申請した人)は悪人でも極楽浄土に往生できます。
往生極楽を望んでいない人まで極楽に強制連行されるとは書かれていません。
念仏に瞑想的な効果があるのは、もしかしたら脳科学的な真実かもしれませんが、それは、脳死が人の死かどうかを科学的に確かめるような話です。
浄土教は、念仏した人は阿弥陀仏に救われる人であると「みなす」「扱う」のです。
つまり、仏法に基づいて、日本中の仏教徒が、念仏した人(自分と他人)を「救われる人」だと扱うということです。
阿弥陀仏を信じている全国の何千人何万人のお坊さんたちは、念仏しているあなたを慈しんでくれるでしょう。
本当に往生できるかどうかは死んでみないとわかりませんけどね。
まぁ、善人でも悪人でもみんな救われたら良いのになという阿弥陀仏の慈悲に共感するだけでも、かなりハッピーな気分にはなれます。
ただし、やはり煩悩は悩み苦しみの原因になります。
来世は極楽だと「確定」しても、この世を快適に生きるためには、瞑想(煩悩を制御したり消したりするための修行)は役立ちます。
あと、念仏をある程度の時間称(とな)えるなら、それは脳のリズム運動なので、セロトニン神経の調子を整え、精神的に安定させる効果があるかもしれません。

追記
頭の中で色々と仏教について概念をかき回すことはできますが、まずは、基本的な仏教の知識を学んでみてはどうでしょうか。
一言で「瞑想」と言っても色々ありますし。
ユーチューブで、「スマナサーラ長老 ヴィパッサナー瞑想」とでも検索してみて、スマナサーラ長老による瞑想の説明を視聴してみてください。

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がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四...
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「南無阿弥陀仏」以外に阿弥陀仏はどこにいる?

斉木さんこんばんは。

そう無理に自分を納得させる必要はないですよ。信じられないものは信じられません。それでも信じることを前提としてのみ成り立つ救いが浄土真宗の救いであるならばこの私ににもそれは成り立たないものです。

さて、いろいろ疑問がこんがらがっているようですね。この回答では全てには答えきれませんし、私の理解・能力ではお答えできないところもございます。それでおも思う所を少しばかり…。

仏教においては最高の真実、すなわち仏の覚りは言葉では表現できないものであるとされます。言葉とは対象を概念化して捉え、その対象を他のものと比較して区別して言い表す手段です。ですから何か対象をとりあえずの表現はできますが、その表現された言葉は実はその対象を究極的には表現しきれていないのです。

言葉以前の覚りの世界に目覚める行は仏教では基本的には瞑想です。しかし雑念に振り回される凡夫には瞑想はできません。いや、できる人もいるのかもしれませんが私にはできません。そのような私を目当てとして説かれたのが阿弥陀仏の教えです。
阿弥陀仏は「南無阿弥陀仏」という言葉となって私に届いています。その言葉を通して言葉を超えた、あるいは言葉以前の覚りの世界に念仏者は触れさせていただくのではないでしょうか。

ですから阿弥陀仏の教え・救いは阿弥陀仏が歴史的事実であることや科学的事実であることを成立の条件とはしません。現に私が私の口から称えさせていただく「南無阿弥陀仏」が全てです。いる・いない、いた・いなかった、に関わらず私は現にお念仏申しているのですから。

親鸞聖人が阿弥陀仏のことをどう理解されていたか全てはわかりかねますが、けして死後の世界としての極楽浄土の実在や、阿弥陀仏という人の実在を前提とするような理解はされていなかったでしょう。

自然法爾章では「弥陀仏は、自然のようをしらせんりょうなり(阿弥陀仏とは自然という有様を知らせる手立てである)」といわれ、『唯心鈔文意』では阿弥陀仏について「いろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず。ことばもたえたり。」とし、その一如(言葉以前の覚りの世界)から「かたちをあらわし」たのが法蔵菩薩(阿弥陀仏の前身)であるとされています。

よく味わってみてください。

南無阿弥陀仏

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はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生...
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質問者からのお礼

願誉浄史様、いつも回答してくださり、ありがとうございます。
経典を拠り所とするのが仏教ですよね。僕は経典の内容に自分の勝手な解釈をしていました。道元禅師も独自の哲学を展開し、経典とは大分異なる解釈をしていたようですが、僕はおそらく自分の願望を優先していたようです。
僕が話を聞いたお坊さんはかなり現実的な解釈をしていたので、僕は信心がないので「現実的な内容であったらいいのにな」と思っていました。
お念仏はたしかに、長時間やっているととても頭がスッキリし、瞑想と似たような感覚になりました。
あまり深くは考えず、お念仏を唱える生活を続けたいと思います。
回答、ありがとうございます。

吉武文法様、いつも回答してくださり、ありがとうございます。
ほぉ~、かなり難しいですね。信じられないなら、信じられないでいいということでしょうか?そのためのお念仏の教えなのですよね(理解したつもりになっているだけかもしれませんが)。
南無阿弥陀仏=悟り(言葉では説明しきれない領域を表したもの)ということでしょうか?
んー、仏法は非常に内容が深く、たかだか数ヶ月程度の聞法では理解できないようです。
お念仏を申す生活をしつつ、聞法を続けていきたいと思います。
回答、ありがとうございます。

「念仏について」問答一覧

きらびやかな誕生に比べて人生がしょぼい

母が富士山に登った時にゲロッとつわりが来て僕を妊娠していることが判明。そのストーリーゆえに「おまえは富士山の神様から授かった子かもしれんな」と父に言われた事が自分の自尊心・自己肯定感の源になってきました。 富士山の神様は浅間大明神=木花咲耶姫ですが、母の実家の隣にはこの神様を祀った神社があったり、大学に進学して富士山と関係ない地方に住んだら僕の苗字がついた神社があったので参拝してみたらそこの祭神も木花咲耶姫だったりと、ただならぬ縁を感じています。 子供の頃は明らかに他の同級生に比べても知能がズバ抜けていたし、数年前にIQを測ったら132でした。 ただ、そのキラキラした誕生ストーリーの割には実際の人生がキラキラしてないのです。社長でもリーダーでもなく、しがないサラリーマン歯科医。金持ちでもないし住まいも田舎。人に慕われるような人気者でもなく、5年も婚活してやっと結婚できてもつまらない理由で離婚させられ、再婚相手が見つかったと思ったら婚約破棄。今3度目の婚活中で、もうじき40歳になります(この辺りの経緯は過去質問を参照ください)。 ここから浅間大明神の子に相応しい英雄になれるドラマが自分の人生にあるとは思えないし、あったとしてもそれに耐えうる根性が自分にあるかも怪しいです(5千万円の借金にビビって開業あきらめた弱虫ですから)。 念仏者としては神の子より凡夫の方が良いのかもしれませんが、自分の自己肯定感の源と現実との格差をどう縮めたものかと時々情けなく思います。

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迷いを抱えたまま回向をすることについて

3年前に父が亡くなり、うつ病となってから、自分の心を整理するために宗教・哲学・心理学など様々な本を読みました。 その中でも自分の腑に落ちたのは仏教の教えです。釈尊が説かれた「諸行無常」「諸法無我」の教えは、抑うつ症状に苦しむ中での支えとなっています。 しかし、一方で仏教を学ぶにつれて迷いが出てきたこともあります。それは、我が家の宗派である浄土宗の教えについてです。 我が家は祖父も父も信仰に厚い人だったこともあり、私も毎日遺影の前で念仏を唱えて回向することが日課になっています。しかし、自分なりに様々な宗派の教えを学んでいく中で、法然上人の説かれた「智者のふるまいをせずしてただ一向に念仏すべし」という教えにある種の苦しさを感じるようになってしまいました。 日によって体調が安定せず、中々快方に向かわない現状が続く中、「阿弥陀様におすがりする」という考え方が、自分の中で上手く飲み込めないように感じてしまっています。 最近ではむしろ「それ仏法遥かに非ず。心中にして即ち近し。」という弘法大師の言葉のように、「自分の心と向き合う」ことに考えが向いているところがあります。 自分の心の問題は時間をかけて解決していけば良いとしても、今悩んでいるのは毎日の回向についてです。上記のような迷いを抱えたまま、念仏を唱えることは問題ではないでしょうか。やはり心が伴っていなければ回向に意味はないのでしょうか。父の祥月命日がもうすぐという中で、悩みが深まっています。 家族にも医師にもカウンセラーにも相談できない中で、「ハスノハ」さんを見つけました。お答えをいただけますと幸いです。

有り難し有り難し 18
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南無阿弥陀仏のお念仏で極楽に往けますか?

浄土宗のお坊さんにお聞きしたいです。 私は、浄土宗の信徒です。歳は70歳を超えた現在今更ながら恥を忍んでお聞き致します。 (ご住職様は日頃、京都にお勤めでお寺にはおられませんのでこちらにお聞き致します) 私はずっと、南無阿弥陀仏と心から信じて唱えていると、ご本尊様が臨終の際に極楽浄土に導いて下さると信じていました。毎朝晩、ご燈明をつける時一生懸命にお願いをしておりました。 従って日常の行いは大切ではあるけれど、その行いによって六道輪廻のどこかに落とされる?という教えは、浄土宗には関係ないものとずっと思っておりました。 それ故、葬儀の後の七日毎の逮夜は審判ではなく供養をしていると思って勤めておりました。 ところが本日、親鸞聖人に関係のある某団体主催の勉強会に参加させて頂きました。 その際、講師の先生曰く 〇お釈迦は南無阿弥陀仏と唱えれば極楽浄土に行けるとは一切言っておられませんとか。  そんなのなら、誰もが極楽へ行けますよとか。 〇六道輪廻はあります。魂とは別に?根底に肉体という物体がありその物体が輪廻しているとか。 私の様な凡人にはよく理解出来ませんでしたが、今まで心より信じていましたご本尊さまのお導きによって極楽浄土へ行ける事を否定されている事に大きなショックを受けました。 今まで思っていた通り、心よりお念仏を唱える事でご本尊様に極楽浄土に導いて頂けると信じていてよろしいでしょうか? よろしくご指導下さい。 ★法然上人のお弟子さんの親鸞聖人に関係する会という事でしたので参加してみました。

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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ