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比喩表現なのか...謎

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お世話になっています。僕はこれまで、「お念仏は1日10回程度でいいだろう」と思っていました。何なら、1回でもいいと思っていました。ところが、あるお坊さんから聞いたのですが、「お念仏というのは、瞑想みたいなものだ」と言っていました。ただ手段が違うだけだと。瞑想では、呼吸や身体の感覚に集中することで、「今」に心を置きます。お念仏も瞑想と同じで、お念仏を唱えている時だけ「今」を生きることができると言っていました。自力の計らいというのも、瞑想でいうところの雑念なのでしょう。また、阿弥陀様や如来というのは、この世の大いなる働き(空、因果律)のことだと言っていました。浄土真宗はとにかく比喩表現が多いんだと。これらのことは本当なのでしょうか?もし、本当だとしたら煩悩を自覚する意味が分かりません。また、煩悩即菩提の概念もよく分からなくなってしまいます。僕は今まで本当に浄土(死後の世界)があり、阿弥陀様も実在する「人」だと思っていました。
しかし、内心では疑いを持っていました。南無阿弥陀仏と唱えれば浄土に往生でき、それが出来なければ地獄行きというのは疑問に思っていましたし、大宇宙の法則がなぜ「この人は浄土、この人は地獄」と判断するのかもおかしいと思っていました。もし、このお坊さんのいう通りなら、色々と納得できる部分がありますが、実際のところはどうなのか気になります。回答お願いします。

2020年4月21日 22:44

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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

「南無阿弥陀仏」以外に阿弥陀仏はどこにいる?

斉木さんこんばんは。

そう無理に自分を納得させる必要はないですよ。信じられないものは信じられません。それでも信じることを前提としてのみ成り立つ救いが浄土真宗の救いであるならばこの私ににもそれは成り立たないものです。

さて、いろいろ疑問がこんがらがっているようですね。この回答では全てには答えきれませんし、私の理解・能力ではお答えできないところもございます。それでおも思う所を少しばかり…。

仏教においては最高の真実、すなわち仏の覚りは言葉では表現できないものであるとされます。言葉とは対象を概念化して捉え、その対象を他のものと比較して区別して言い表す手段です。ですから何か対象をとりあえずの表現はできますが、その表現された言葉は実はその対象を究極的には表現しきれていないのです。

言葉以前の覚りの世界に目覚める行は仏教では基本的には瞑想です。しかし雑念に振り回される凡夫には瞑想はできません。いや、できる人もいるのかもしれませんが私にはできません。そのような私を目当てとして説かれたのが阿弥陀仏の教えです。
阿弥陀仏は「南無阿弥陀仏」という言葉となって私に届いています。その言葉を通して言葉を超えた、あるいは言葉以前の覚りの世界に念仏者は触れさせていただくのではないでしょうか。

ですから阿弥陀仏の教え・救いは阿弥陀仏が歴史的事実であることや科学的事実であることを成立の条件とはしません。現に私が私の口から称えさせていただく「南無阿弥陀仏」が全てです。いる・いない、いた・いなかった、に関わらず私は現にお念仏申しているのですから。

親鸞聖人が阿弥陀仏のことをどう理解されていたか全てはわかりかねますが、けして死後の世界としての極楽浄土の実在や、阿弥陀仏という人の実在を前提とするような理解はされていなかったでしょう。

自然法爾章では「弥陀仏は、自然のようをしらせんりょうなり(阿弥陀仏とは自然という有様を知らせる手立てである)」といわれ、『唯心鈔文意』では阿弥陀仏について「いろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず。ことばもたえたり。」とし、その一如(言葉以前の覚りの世界)から「かたちをあらわし」たのが法蔵菩薩(阿弥陀仏の前身)であるとされています。

よく味わってみてください。

南無阿弥陀仏

2020年4月22日 22:59
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はじめまして。 北海道の道南地区にある若松という農村のお寺に所属しており...

脳死は人の死か?

脳死は人の死でしょうか?
脳以外の細胞は生きていますが。
しかし、臓器移植する場合は、法律上、脳死を人(ドナー)の死だと「みなし」、死人だと「扱って」良いのです。
科学的な真実とは別に、社会的な事実があります。
大乗仏教では、大乗経典が法律みたいなものです。
経典によると、念仏した人(往生極楽を申請した人)は悪人でも極楽浄土に往生できます。
往生極楽を望んでいない人まで極楽に強制連行されるとは書かれていません。
念仏に瞑想的な効果があるのは、もしかしたら脳科学的な真実かもしれませんが、それは、脳死が人の死かどうかを科学的に確かめるような話です。
浄土教は、念仏した人は阿弥陀仏に救われる人であると「みなす」「扱う」のです。
つまり、仏法に基づいて、日本中の仏教徒が、念仏した人(自分と他人)を「救われる人」だと扱うということです。
阿弥陀仏を信じている全国の何千人何万人のお坊さんたちは、念仏しているあなたを慈しんでくれるでしょう。
本当に往生できるかどうかは死んでみないとわかりませんけどね。
まぁ、善人でも悪人でもみんな救われたら良いのになという阿弥陀仏の慈悲に共感するだけでも、かなりハッピーな気分にはなれます。
ただし、やはり煩悩は悩み苦しみの原因になります。
来世は極楽だと「確定」しても、この世を快適に生きるためには、瞑想(煩悩を制御したり消したりするための修行)は役立ちます。
あと、念仏をある程度の時間称(とな)えるなら、それは脳のリズム運動なので、セロトニン神経の調子を整え、精神的に安定させる効果があるかもしれません。

追記
頭の中で色々と仏教について概念をかき回すことはできますが、まずは、基本的な仏教の知識を学んでみてはどうでしょうか。
一言で「瞑想」と言っても色々ありますし。
ユーチューブで、「スマナサーラ長老 ヴィパッサナー瞑想」とでも検索してみて、スマナサーラ長老による瞑想の説明を視聴してみてください。

2020年4月22日 21:41
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浄土宗教師。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための...

質問者からのお礼

願誉浄史様、いつも回答してくださり、ありがとうございます。
経典を拠り所とするのが仏教ですよね。僕は経典の内容に自分の勝手な解釈をしていました。道元禅師も独自の哲学を展開し、経典とは大分異なる解釈をしていたようですが、僕はおそらく自分の願望を優先していたようです。
僕が話を聞いたお坊さんはかなり現実的な解釈をしていたので、僕は信心がないので「現実的な内容であったらいいのにな」と思っていました。
お念仏はたしかに、長時間やっているととても頭がスッキリし、瞑想と似たような感覚になりました。
あまり深くは考えず、お念仏を唱える生活を続けたいと思います。
回答、ありがとうございます。

吉武文法様、いつも回答してくださり、ありがとうございます。
ほぉ~、かなり難しいですね。信じられないなら、信じられないでいいということでしょうか?そのためのお念仏の教えなのですよね(理解したつもりになっているだけかもしれませんが)。
南無阿弥陀仏=悟り(言葉では説明しきれない領域を表したもの)ということでしょうか?
んー、仏法は非常に内容が深く、たかだか数ヶ月程度の聞法では理解できないようです。
お念仏を申す生活をしつつ、聞法を続けていきたいと思います。
回答、ありがとうございます。

「念仏について」問答一覧

禅と念仏

こんにちは。僕はこれまで様々な道(生き方)を求めて、真宗の教えを求道中だったのですが、はっきり言ってこれまでやってきたことは偽りに過ぎなかったと思い始めました。僕は真宗(本願寺派)において信心をいただきましたが、結局疑いは消えないようです。疑いあるままの救いのようですが、どうも僕にはそれが耐えられないようです。とにかく苦しくて仕方ない。 一方、真宗大谷派の方はもとより疑うべき考え方がないので、とても気が楽になり、最終的には「事実のみが救い」だと最近学びました。 真宗大谷派が最善だと思っていたのですが、僕は精神統一をしなければとても精神が不安定になることもあり、どうせなら座禅の方が良いのではないかと考えています。 これは僕の勉強不足かもしれませんが、座禅と念仏の教えは確実に繋がっているところがあるように思うのです。座禅の教えは自力だと言われていますが、僕はそうは思わず、考え方の問題だと思います。念仏だって自分の意思で間違いなく念仏申しますが、考え方としては「阿弥陀仏の力によって念仏させられる」と考え、禅宗でも「座禅が座禅をするのだ」と言っている人もいます。それに、「座禅は悟りを開くことが目的ではなく、座禅そのものが目的」だと聞きました。 他にも禅で言う大悟も、念仏の信心と似てるというか、もう一緒ですよね。「妙好人」の著書で知られる、鈴木大拙先生も念仏の教えと座禅の教えを比べながら大悟を解説していますし、大悟したと言われる一休禅師も煩悩が消えているわけではない。実際にはどういう境地なのかは分かりませんが、おそらく「仏の眼」によって煩悩あるがままでも力強く生きることができたのではないかと理解しています。 これらの事から、僕は禅の道を歩もうと考えています。 念仏の教えと座禅の教えは、ほぼ同じようなものだと考えている僕ですが、実際はどうなのかが知りたいです。よく吟味しながら求道しようと思っていますので、遠慮なく厳しいお言葉でも構いませんので、念仏と座禅の関係性、大悟や信心の類時点や相違点を教えていただけると有難いです。

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気持ちが変わってきた

こんにちわ いつもお世話になっています。 最近仏様にお祈りして頼っております。念仏を唱えると気持ちが落ち着き支えられています。 苦しい時の神頼み的で申し訳ない気もしますが… でも、何故か?唱えているとお線香の香りがして来て近くにいてくれていると感じます。 そのせいか、気持ちが変わってきて焦りではなく早く仕事に行きたいと思わせて頂くようになりました。 前はそう思っても怖い不安が先にたちなかなか面接行っても不採用にならないかなと思っていた自分がいました。 先日面接に行ってきてまだ、採用にはなっていませんが、手応えがありました。 今は仕事に行けたら嬉しいなと思えます。 体力的に自信はありませんが、当たって砕けろ的な考えです。 自分がどこまでできるか? ダメなら辞めてもいいって考えて気楽にチャレンジしてみようかなんて! 明日の事は誰にもわからないし わからないから希望ももてるし! 明日失敗するってわかっていてもそれをこなさなければならないならば、人間って生きていけない生き物ですよね? 何が起こるかわからないから期待や希望が持てる物だと感じました。例え失敗に終わってもそれはそれでチャレンジした自分がいるわけだから満足できるのかなと。 明日採用の合否がわかります。 祈っていて下さい。

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【浄土宗】本当の念仏行って…何?

 いつもお世話になっております。  まず、質問に先立ちまして御礼とお詫びを申し上げます。  この件に大変尽力してくださった、先生方。ありがとうございます。 そして、大変申し訳ございませんでした。  お念仏は続けていますが、あれから菩提寺を含め、浄土系の寺院には お参りが途絶えている状況です。  私自身、自分の信じていた宗の精舎がすさんでいくのを見るのが とてもつらかったのです。私では、止めようがありません。  詳細を説明すると、 ・お坊さん(布教師)の言うことがちょっとおかしい  →他宗の行をけなしたり、念仏以外の行を積むと地獄へ行くなどと平然と  言い放つ、他の仏様をけなす。   「なむあみだぶつ以外は邪教!!」「本山が喧嘩しあってる」 「平等とは何だ」など、不安を煽るようなことを平気で言う。   結果、信徒の9割がその影響を受けて変な方に考えが行ってしまった。  とにかく、私はつらかったです。悲しかった。顔で笑っていても、 腹の底で悲しむ私の姿を、お母さんー阿弥陀様に見せたくない、 そう思って、門から出ました。  本当の念仏とは何?この数年間私は考えました。恋しい「親様」のために。  「苦行に費やす時間を、目の前の苦しむ人たちのために。 来たるべきその後の時は、仏様が確実に手を引いて導いてくれる」  他の神仏の悪口なんか言っちゃいないし、好き勝手どころか、むしろ、 「良心」を前提で動く私たちの背中を優しく見守ってくれる。 「ドジ踏んだって怒らないから安心しな」と。  本当の念仏行って、なんなんでしょうか?

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