「天命」の意味とは
「人事を尽くして天命を待つ」の意味を教えてください
私は今、行方不明の愛猫を探しています。
モットーに「人事を尽くして天命を待つ」と掲げ、折れそうな心を励まして探して来ました。
しかし、素人なりにかなりいろいろな捜索活動をしたのですが、ちっとも情報が来ません。
「天命」を待つ間、眠れず食べられずイライラキリキリして張り裂けそうになっている時、hasunohaに出会いました。私の質問に答えていただき、また過去似たような状況で苦しんでいる人の問答を読んで、現代社会のドライな価値観とは違う広大なものの捉え方にとても慰められました。
気づいたのですが、私は「天命」を「よい知らせ」とだけ捉えていたようです。しかし、ハスノハで問答を読むうちに、「天命」とは、よい知らせという意味ではなく、いいことも悪いことも、命のありよう全てを含んだもっと大きなものなのではないかと気づきました(上手く言えなくてすみません)。
「なぜ必死で手を尽くしているのによい知らせが来ないのか、努力が足りないのか、大切なあの子に、辛く苦しい残酷な死に方をさせてしまったのではないか」と焼け焦げそうにイライラして泣いてばかりいましたが、猫という命と人の命、その別々の命が出会ったことにもっと感謝して、自分のこれまでの生き方など全てを大きく受け止めることが「天命を待つ」の本当の意味なのではないかと、気づきました(分かりにくい文章ですよね?すみません)
よい知らせばかりを待ち望んでいた私にとって、この意味に気づいたのは衝撃でした。「天命を待つ」とは、いい結果も悪い結果もそのまま大らかに受け止めることではないかと思ったとき、全く違う世界が広がったのです。
私は、愛する猫を危険な目に遭わせるどうしようもない飼い主です。人によっては、動物と関わる資格がないと言うでしょう。けれど、少しずつ自分を許していかないと、今後呼吸すらできなくなり猫の捜索に向かうパワーがなくなってしまうと感じています。
ごめんなさい、ほとんど独り言の懺悔になってしまいました。
まとめると、お坊様に聞きたかったことは、「人事を尽くして天命を待つ」という言葉についての、仏教的解釈です。もとは儒教の言葉だと聞きかじりましたが、「人事を尽くして天命を待つ」とはどういうことなのか、教えていただきたいです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
仏教では諸行無常と言います
みおさん、こんにちは。
基本的にはおっしゃる通りかと思います。
ちなみにですが、僕も大の猫好きです。
結果は誰にもわからないが、過程で努力することができる。努力しかできないと否定的に受け止めるのか、努力ならできると肯定的に受け止めるのか。その両面があると思います。
仏教では諸行無常という言葉があります。よくはかないという意味合いで理解をされますが、本来の意味合いは「この世のすべてのことは互いに影響し合いながら、時々刻々と変化し続ける」という意味合いです。言い方を変えるなら、この世の出来事一つ一つには、数限りない縁が関わっているので、努力したから思い通りになるという単純な世界ではないということと表現できます。それは猫さんが出て行ったことも、帰ってこないことも、すべてのことが個人の思い通りにはならないということです。
複雑な要因(縁)が絡み合っているために、本来、何をどうしたらうまくいくなんてことは人間にはわかりえないわけです。しかし、かといって何もしなければ、何も始まりません。自分の努力ならいつだってできるわけです。そういった意味合いで言うならば、「人事を尽くして天命を待つ」とは、努力はするけれども、結果にはとらわれないとなるでしょう。
なので、みおさんのおっしゃる通りです。
さらに言うなら、猫さんにとっての幸せも誰にもわからないとも言えるでしょう。猫さんが逃げ出して帰ってこないのは、餌をもらえているからかもしれません。個人的な経験で言えば、うちから離れていった猫さんは、隣の老人ホームで飼われるようになったり、近所の家で飼われるようになっていたり、逆にどこかの放浪猫がうちの猫の食事を食べるようになって居ついてしまったりと、そんなこともありました。ネットで調べると不安をあおるような情報を多く目にしましたが、どこかでちゃんと餌をもらえているので、帰ってこないとも考えられるのではないでしょうか。
かといってそれで安心できるということでもないでしょう。チラシ、声掛け、保護関係の施設・団体への連絡等、やれることはやって、猫を捜索するパワーがなくなったならば、そんな自分も受け入れつつ、楽しかった、うれしかった思い出に感謝して、猫ちゃんがどこかで楽しく生きていることを願って、ご自身を大切に生き抜いていただければと思います。
少しでも参考になれば幸いです。
宿縁だと思いますよ。
ご質問拝読いたしました。
お気持ち痛いほどわりわかります。
夜も眠れませんよね。
愚僧も動物好きで、
いまはワンコ2人と、
寝ています。
まさに寝食を共にしています。
どちらもいずれは、
なくなる時がきます。
それは覚悟しています。
今でこそ15年くらいは、
生きるようになりましたが、
少し前までは、
半分くらいの命でした。
この子たちは、
短い命をもって
この娑婆世界に生まれてきます。
ただ、不思議なのは、
六道輪廻といいまして、
地獄、餓鬼、畜生、修羅、
人間、天界のうち、
人間と動物のみが、
この娑婆世界で、
同じ時間、場所を共有しています。
人間同士だって、
一生会わない人、
会話しない人が殆どですよね。
それが同じ空間と時間を
ともにすることができました。
ご自身を責めても詮無いことです。
帰ってくることを信じて祈る。
祈り続ける。
万が一、帰ってこなければ、
宿縁として諦める。
前世からつながる、
運命とか、縁という意味です。
人事を尽くすとは、
自らの努力により道を切り開く、
ことでございます。
ネコちゃんには、
ネコちゃんの運命がございます。
帰ってきたら、
よく帰ってきたね!と、
褒めてあげる。
ネコちゃんもワンコも、
私たち人間とは時として、
違う行動をとります。
予期しない行動するのです。
仕方がないのです。
どうかご自分を責めるのは、
どうかお止めください。
御縁があって目の前に、
現れた子のお世話を
精一杯するしか、
私にはございませんよ。
早く見つかることを
祈っています。
天の配剤でしょうか
拝読させて頂きました。
そうですか…その子はまだ見つからないのですね…。残念です‥。
引き続きその子があなたのところの戻ってきます様にお祈りさせて頂きます。またその子が心穏やかに安心して生きていきます様にと心から祈ります。そしてあなたの思いがその子に届きます様にと心から祈っています。
あなたはその子の為に一生懸命に頑張っていると思います。その思いは必ず届いていると思います。あなたは人事を尽くしていると思います。
とはいえこの世ではなかなかそう思い通りにはいかないものです。様々な要因があり巡り合わせが複雑に絡み合っています、ですからものごとは単純にはいかないのでしょうね…。それは私達の知恵では遠く及ばないことでもありますから、それが天命ですからね。
私達の無力を知らされる様にも思いますが、とはいえ全く無力で届かないことでもないと思います。
あなたの思いも私の思いも巡り巡って天にもその子にも必ず届いていると思います。
改めてその子もあなたも心穏やかに安心して生きていかれます様心を込めてお祈りさせて頂きます。きっとあなたはその子に会うことができると思います。引き続きあなたとその子の為にお祈りしていますね。
あくまでも儒学の話し
意味を調べると「胡寅の『読史管見』に「人事を尽くして天命に聴(まか)す」とあるのに基づく。」とありますから、あくまで儒教の教えになります。
敢えて、曹洞宗の開祖の教えに当てはめれば、簡単にいうと「人事を尽くしたことが天命だ」となります。修行をして悟りを得るのでなく修行していること自体が悟りで止めたら元に戻るのです。修行に終わりはないのです。
行方知れずになった猫さんを探そうとする行動や気持ちが大切なのです。私は一緒に探せませんが見つかることを祈っております。
質問者からのお礼
今小路覚淳様
回答していただいて、ありがとうございます。猫が好きな方に答えていただけてうれしいです。
あなた様の言葉で、私は今まで、かなり思い通りのラッキーな人生を送ってきたと気づかされました。自分では、いじめ、うつ、就職活動など苦労がある人生と思っていましたが、自分でなんとかできることは苦労のうちに入りませんでした。それに気づかされました。
思い通りにならないことがあって、当たり前ですよね。ましてや動物相手では。「諸行無常」の意味を言葉では分かっていたのですが、ようやく心から理解しました。私は今まであまりにも恵まれていたようです。
ちっぽけな人間にできることは限られているかもしれませんが、精一杯頑張ろうと思います。
猫がどこかで地獄の苦しみを味わっているのではないかと思うと死んでしまいたい気持ちになってしまう時もありますが、まだ愛猫が死んだと決まったわけでもないですし、努力が実らなかったとしても私の残りの寿命は他の動物を幸せにすることに使うことができると考えて、生きていようと思います。
花山雲吉様
教えてくださってありがとうございます。すごく、心が救われました。何度も読もうと思います。
ありがたいことに死や別れに慣れていない人生を送っていて、かなり動揺しているようです。
信じ続け歩み続けることは思った以上に辛いことではありますが、自分にはまだ命があるので生き続けます。仏教では、愛とは執着を生むものとして必ずしもよいものとは言われないようですね。けれど、まだまだ愛して別れに泣いて、不様でも生きようと思います。不思議と動物が転がり込んでくる家系なので、悔いなく共に生きていきます。
しっちゃかめっちゃかな文ですみません。とても感謝しています。
Kousyo Kuuyo Azuma様
再びお話しすることができてうれしいです。ありがとうございます。
お礼が遅くなり申し訳ありません。大事に書いていたら遅くなってしまいました。
思いは無意味ではなく天に届いているとのお言葉、とても勇気づけられます。
今回のことを通して、私の傲慢さに気づかされました。
努力でなんでもカバーできる、思う通りの飼い方ができるよう家族に協力してもらい、平均寿命以上に生きさせることが当たり前と思っていましたが、家族それぞれの今までの生き方考え方や個性、猫の気持ち、そういったものを全て私の思った通りにできるというのは思い上がりでした。人間が及ばない天命というものがあることをあなたに教えていただきました。
ソワソワと辛い日々ですが、あなた様がくださった言葉を胸に、歩みは止めず、後悔なく人事を尽くしたいと思います。まだ努力は辞めませんが、既に人事を尽くしている、と認めていただいてとても救われています。ありがとうございます。
大鐵様
お礼が遅くなり申し訳ありません。
お言葉の意味を深く考えるのに時間がかかってしまいました。
愛してやまない猫の不在を通じて、同じ命は二つとないこと、愛していても私の命と猫の命は別々のものであること、いつかは別れがくるからどうでもいいような1日が本当に大切であること、他にもたくさんのことを学ばせてもらいました。探すこと自体に意味があるというお言葉が、時間を掛けて腑に落ちた気がします。本当にありがとうございます。