愛の形は色々なのだと思いますが
私達はお互い結婚する気もなく、お互いをそんなに知りませんし会う回数も少ないです。それでも何年も付き合っています。
彼は自分の現状をあまり話さない人で、何をしているのか不安になり何度も別れを考えました。他に付き合っている人がいるという疑いの気持ちが拭えなかったのです。何度も衝突したし私自身悩みました。でも私も私の現状をあまり話していない事に気が付きました。
愛しています。こんなに深く愛した人はいないです。彼も彼なりに愛してくれています。もういい加減私の別れ話に嫌気が差し去られてしまうだろうという時も別れずにいられました。許して許されて今の私達があります。
それでも私が年上で結婚を迫る事もなく、ほっといてもさして何も言わず、都合のいい女なんじゃないかとか不安になる事もあります。先の約束などない間柄です。いつか別れを告げられ他の人の所に行ってしまう不安。愛しているのならそれも許してあげられるのでしょうか。こんな不安を感じるようでは愛してるうちに入らないでしょうか。やはり疑いは真実と仰るでしょうか。
愛するとは愛されるとは決まりなどないはず、こんな関係にも愛があるのだと思いたいです。
何を伺いたいのかわかりにくい文章で申し訳ありません。時折ふっと不安になるのです。それでも私は愛してしまうのです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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色々な愛
ご相談拝読しました。
一口に愛とは言っても、愛とは何なのでしょうか。
愛について、仏教では渇愛といい基本的には否定的な文脈で用いられます。自己関心・自己都合によって貪る心です。自分の都合に合うものは欲し、合わないものは遠ざけたいとする心です。
一方いわゆる愛、私たちがイメージするような相手を慈しみ受け入れる愛は慈愛(慈悲)として、私たちでなく仏様の心とされます。
私たちが私心を差し挟まず仏の慈愛をそのまま受け止めたならその心は信愛といえるのかもしれません。
さて、あなたの場合はどうでしょうか。それはどんな愛でしょうか。
これはけしてあなた一人の問題ではありません。人間は関係を生きるものです。あなたとそのお相手の関係が上記のような愛と照らしてた時にどのようなものとなっているのかか大事な問題です。
お互いに自分の都合の範囲内で上手くやっていけるならそれも一つの関係の形です。それが愛と呼べるのはわかりませんが。
しかしどちらかがそれに満足できずもっと求めるようになった時、そして相手はそれには応えたくないという時、私たちの愛は渇愛として燃え盛り、自己否定や相手への憎しみという形になってしまう恐れがあるのでしょう。
お二人の関係が「愛」かどうかよりも、お互いに何を望みどうしてきたいのかが一致するかどうか、一致しない時に相手の要求をどこまで受け入れられるかという問題かもしれません。
質問者からのお礼
以前にもお世話になりました。再びの回答をいただきありがとうございます。
迷いながらも彼を見てきました。そして私も見てきました。最初の頃は本当に辛くなる時もありました。それでも自分をしっかりさせて生活してきました。その中で気が付かされる事も多くありました。愛する事を勉強しているようです。
せっかくこのようなチャンスをもらえた人生なのだから回答にある事を心に持ちながら信じる事も学びながら生きたいと思います。心に染みる回答でした。少し痛くなる程です。
人とは出会いとは不思議なものです。
何年か前の私はまさか愛についてこんなに考えるような事が起きるとは思ってなかったです。このようにお坊様からお言葉をいただけるとも思ってなかったです。
ありがとうございます。
あれから慈愛について調べたりしました(ネットですが)。
慈愛というには全く遠いとは思いますが、それを意識してみました。人に対して丁寧になったような気がします。人と共に成し遂げるという事をする時には必要な心持ちなのですね。
そして相手にも。何も望まなくてもお互いに繋がっているようで、私の生活を楽しめるようで、平穏です。
すばらしい気付きをくださりありがとうございました。