すぐ「死にたい」と言う癖を直したいです
タイトルの通り、死にたいとぼやいてしまう癖があります。
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人前では滅多に言いません。(電話で祖母に言ってしまった一度きりです)自室に一人でいるとき、帰り道、大学に行くとき、風呂に入っているとき、トイレに入っている時によく言ってしまいます。
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大抵、自分が過去にやらかした事をふと思い出したり、現状の自分を振り返ってしまった時に自然と口から出てしまいます。
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! あぁ死にたい……ダメだダメだダメだ……
死にてえ! 死ぬっきゃねえ!……ダメだダメだダメだ……
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といった具合です。
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言うべきでない言葉だ、とは分かっています。言ってしまうことで自分のテンションも下がります。友人、知人も離れていくと予想できます。言うべきでないことは身をもって知っています。
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人はいつか死にます。死にたかろうが生きたかろうが、いつかは土に還ります。ぼやく暇があるなら一生懸命生きるべきなのでしょう。
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しかし、二日に一回はそのような趣旨の言葉を使ってしまいます。衝動的に口走って、自己嫌悪に陥るまでがセットです。
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長文乱文失礼しました。こんな自分の癖を直したい、この癖と上手く付き合っていきたいです。一言いただければ幸いです。
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追記:自殺には至っていないものの、この先の人生を生きていくのが嫌で、死にたいと思っているのは確かです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
言葉となって現れ出る元に何があるのか
カナエさんこんにちは。自分の癖に自分が苦しめられているのですね。
癖は習慣的になったものですから、突然劇的になくなるというのは難しいでしょうが、おっしゃる通り上手く付き合っていく中で段々と減っていくと良いかもしれませんね。
でも時々は一人で思いっきり「死にてぇぇえええええええー!」って叫んだっていいと思いますよ。
さて、
>ぼやく暇があるなら一生懸命生きるべき
とのこと。そうでしょうか。そんな人生が何だかしんどく虚しいから死にたくなるのではないでしょうか。
私たちの言葉や行動となって現れ出るものの元は心です。心が言葉や行動となり、そしてその言葉や行動がまた心に影響を及ぼしていきます。
ですから向き合うべきは「死にたい」と言ってしまう言葉・行動そのものよりも、それを生み出す心…つまりは過去の後悔や自分という存在の受け止めについてなのかもしれません。
私も過去を振り返ると色々やらかしてきました。それについて後悔したり悶えるほど恥ずかしくなることもあります。
でもその当時の私にはそうとしかできなかったのでしょう。それを今の私が今の価値観で責めたり裁いたりしてもどうにもなりません。
至らなかった私、そして今もなお至らないものとしてあり続ける私を受容できた時、過去はなくならずとも活かされてくるのではないでしょうか。後悔はなくならずとも私の土台となり支えるものとなるのではないでしょうか。
それに、カナエさんは死にたいと思うほどに実は本当のことを求めているのではないでしょうか。
人生とは、私の命とはこんなにも空しいものなのか、そんなはずはないのではないかという問いが、その裏返しとして死にたい思いとして現れ出るのではないでしょうか。
だとしたらその死にたい気持ちも大切なものであるはずです。
>ぼやく暇があるなら一生懸命生きるべき
という安直な答えによって縛られるだけでなく、常に問い続ける歩みとして様々なご縁をいただいていくことこそが虚しさを超える道であり、主体性の確立なのだと思います。
質問者からのお礼
回答してくださり、ありがとうございます。
死にたい気持ちも自分にとって大切なもの、と言われたのは初めてでした。目から鱗、とはこの事なのかと思います。
口癖はいまだ直りませんが、「死にたい」の後に、「ダメだ」ではなく「そうだね」と続くようになりました。
いただいた回答は、印刷して自室の隅に貼っています。
長文乱文失礼しました。重ね重ねとなりますが、ご回答ありがとうございました。