人生の目的
こんばんは。
初めて相談してみます。
皆さまは、どの瞬間に
自分の人生の目的を掴み、確信しましたか?
私は、30歳を目前にして、
人生の目的、過ごし方に疑問を持つようになりました。
これまで、有難い事に家族、友人をはじめ、周りの人たちに恵まれて、不自由のない生活を送ってこられました。
縁があった場所で、良いこと悪いこともありましたが、それなりになんとなく過ごしてきました。
しかし、ここ最近のコロナ禍の中で、
私はなんのために生きてるんだろう?とふと疑問に感じました。
ただ働いてお金をいただき、生活する。
職があり、衣食住に困っていないなら、それで十分だろうと頭では理解できているのですが、
果たしてこの生活に意味はあるのか?
もっと強烈な生きる事への目的があるのでは?
と感じてしまいました。
かといって、生きる目的として確信できるようなものは、今のところ見つからず……。
宙ぶらりんのままで、ただこのままなんとなく生きるのは嫌だ、と焦るばかりです。
どうしたら、人生の目的は見つかりますでしょうか?
教えていただけたら、幸いです。
長い文で失礼致しました。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
わからなくなったという大きな一歩
ご相談拝読しました。
コロナ禍を縁として、生きることについての深い問いを持たれたのですね。とても大切な問いであると思います。
人生の目的についてですが、「私はこのために生きていたんだ!」と明確に強く感じられるものに出会えることはとても幸せなのかもしれません。
しかしそれがどんなものであっても、必ずそれは永遠には続かないものでもあるのです。
最初は強烈な感動と満ち足りた気分があっても、段々と掴んだものを失う不安や、掴んだものへの飽きや不満も出てきます。
さらには掴んだものがどんなものであれ、死ぬ時には全て置いてこの身一つで逝かねばなりません。
すると問題はどうやら「私が死ぬ」という部分にありそうな気がします。
仏教が問題とするのは正にこの「私が死ぬ」ということです。より具体的には生老病死という避けられない苦をどうするのかというのが仏教の課題です。
私は一体何のために生まれ死んでどうなるのか…
このことを大事に考えていきましょう。
仏教にはこの問いについて、私が私の考えで掴んだどんな答えもそれは「迷い」であると破るはたらきがあります。
何かを大事に思うということは何かを大事に思わないということ。それは人間の分別心が原因です。
優劣・大小・遅速・美醜…生死など、あらゆるものを区別し、自分に都合のよいものを近づけ、都合の悪いものを遠ざけようとするのが人間の心なのです。
でもあなたは何か深いところで、そうやって目先の自分の都合の良いものに振り回されていくような在り方に疑問を持たれたのでしょう。
その疑問こそが宗教的求道の第一歩です。その問いを大事に抱えて生きましょう。良かったらそれを一緒に仏教に尋ねてみませんか?
ただ「迷い」続けるだけでなく、迷う私に迷いの身であることを知らせる教えに出遇い、迷いの事実を引受けていくならば、迷いを楽しむ道も開けるように思います。
人生において仕事・友人・家族など生きがいに出会うことは大切で有意義ですが、そうしたものでは完全に満たされないもっと深い問いを私たちは抱え、いわゆる「真理」というものに出遇いたいと願っているのではないでしょうか。