人生ツマラナイ
26歳男、現在無職です。
5月まで医療従事者をしてました。
務めていたのはクリニックで、とてもホワイトかつやることが少なかったため、色々考える時間がたくさんありました。
仕事に就いて1ヶ月は仕事を覚えるのに必死でしたが、覚えてからは私がこの仕事をする必要、意味や生きることの意味を空いた時間に考えてました。
私がこの仕事をする必要はあるのか考えていた頃、コロナが流行りだしました。
務めていたクリニックでは(他のところはどうかわかりませんが)衛生管理が悪く、コロナを甘く見る患者がおり、私がいくら気をつけていてもコロナにかかる可能性が非常に高いと判断し、やめる決断をしました。6ヶ月でやめました。
また、私じゃなくてもこの仕事はできるとか、この職業は買い手市場だから私以外の人がやればいいとか、この程度の知識で収入が良い意味がわからないとか、患者とかどうでもいいとかも考えました。
生きる意味については答えが出ず、次の行動をする気力も起きません。
6年かけてとった資格ですが、資格を取ることが目標だったことに気づきました。
また変に仕事の要領が良く、単純労働化してすぐに飽きてしまいます。
自分がやりたいことを全力でしたいのですが、やりたいことが見えません。
死にたいとは思いません。生きたいとも思えません。
私のような人間が生きていていいのでしょうか。生きるとは何なのでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
ツマラナイの反対側へ
一見、みんなが喉から手が出るほど欲しがるような充実ぶりの中で、なぜ虚無感に駆られるのか。
それは、他者への貢献感が圧倒的に少ないからなのではないでしょうか?
"資格を取ることが目標だったことに気づきました"
"変に仕事の要領が良く、単純労働化してすぐに飽きて"
これらの言葉によく象徴されていると思うのですが、資格取得は就職の為、単純労働化は自分がラクをする為になってしまっているからこそ、結局飽きてしまうのではないでしょうか?
資格の取得も、労働を単純化(効率化)するのも、私以外の他の誰かに【貢献】する為であるという事をもう一度思い起こしてください。
かつて悟りを開き無上の法悦を得たお釈迦さんが、なぜ布教の旅などに立ち上がったのか?一生かけても使い切れない莫大な財産を有する資産家たちが、なぜまだ働こうとするのか?貯金と年金と退職金で余裕で生活していけるお年寄りたちが、なぜシルバー人材派遣センターに登録するのか?地位も名誉も財産もない転落院は、なぜコンビニの募金箱についお釣りを入れてしまうのか?
全部、誰か何かに貢献することで、そこに居場所を見出し、帰属意識が生まれ、そこで【自己確認】しているからに他なりません。
意味と価値は別物
おはようございます。
生きる意味と、生きてる価値は別物。
意味を見出せないからといって生きる価値が無いわけじゃありません。
生きてて大丈夫ですよ。
生きる意味という言葉のトリックにはまり悩む方は少なくないです。
赤ちゃんの頃、1歳2歳のときはどんな事を生きる意味と設定してたか覚えていらっしゃいますでしょうか。
明確に意識して乳児期をすごしてきた方は少ないように思います
それでも人はそれなりに成長し、その時点では自分の得やメリットになる意味を見出せなくても、後で繋げることができれば意味を感じることになります
生きる意味は必ずしも分かりやすいとはかぎらず、キレイ事とも限らないです。
お金のため、退屈しのぎ、身の安全や健康のため、孤独予防、死ぬ勇気がないなど大義名分でなくても生きる価値は十分にあります。
それでも意味を実感できないと不安なら、ご質問文拝見したところ、作業ではなく仕事でのやりがいや充実感がある方が、意味を見いだしやすいかもしれないですね。
自己実現と適者生存のバランスがうまくとれて、健康を保てることを念じています。