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無知の自覚

回答数回答 1
有り難し有り難し 6

こんにちは。僕はこれまで浄土真宗の道を求め続けてきました。
そして、ある日ふと、俺って何も分からないな。と感じました。ソクラテスの無知の知ではありませんが、実際、浄土は何か分からない。死後のことなのかもしれないし、真理のはたらきのことなのかもしれない。ブッダが生きていたら答え合わせもできるだろうが、もういない。
だとしたら僕がいくら輪廻や浄土を解釈したとしても、分かったつもりになって終わりだと気付きました。
輪廻という概念も精神世界と解釈する人もいますし、方便と解釈する人もいます。しかし、本当に死後の世界だったら?という不安がどうしても拭えない。
僕には何も分からない。分からないものは分からない。そして、南無阿弥陀仏という呼び声を思い出しました。阿弥陀仏はどんな劣った衆生も救うと誓っている。
だとしたら、僕が今いくら仏教の教えを理解しようとしても、知識欲を満たすだけのことです。しかも分かったつもりになっているだけです。
そこで気付きました。阿弥陀仏は「そのままでいい」と呼び掛けていたんだと。「そのまま」がそのまま救いだということに気付きました。死後がどうとかではなく、「そのまま」に任せるしかないんだと。
これがいわゆる二種深信なのではないかと思っています。
僕は仏教の教えの全てを否定しているわけではありません。確実に分かる事実もあります。自分が極悪人だということ、因果律(無常、縁起)、南無阿弥陀仏、そして分からないということ。
今あるこれらの事実を大切に生きていければ、それでいいのではないかと思っています。
それとも、このような考え方は求道をやめた者のすることでしょうか?


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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不可知

私は浄土宗ですが、気持ちはわかります。あなたの言っていることはおおむね正しいと思います。

私も、仏教の勉強は無意味なのではないかとときどき思うことはあります。

ただ、わからないことはわからないので、信じるしかないというのがあると思います。

わかることを突き詰めていって、それでもわからないことを信じるという感じでしょうか?

科学でさえすべてを明らかにはしていないのです。更にわからないことを追及している科学者はたくさんいます。

信仰の世界ではそれをある程度でやめてしまい、わからないことに対して、信じることで安心を得ます。

法然上人のお言葉に、
「学問すべからず。但し、念仏を信ぜんほどには之をすべし。」
とあります。

これが念仏者の学問への基本的態度ではないでしょうか?愚鈍念仏ですからね。増上慢はいけない。

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有り難し
おきもち

浄土宗僧侶です。 寺に生を受け、小学校5年で、得度(お坊さんになる儀式)...
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質問者からのお礼

井澤隆造様、回答ありがとうございます。信仰ですか。
しかし、信仰さえできないのが凡夫だと思っています。僕がそうです。信仰して心の安心が得られるのならそれでいいのでしょう。
しかし、僕はあるのかないのか分からないものを思い込むのは苦しい。なぜなら、無意識では疑っているからです。
増上慢。しかし、結局最後は「事実」のみが救いだと思っています。分からないものは分からない。それがなんと言われようが「事実」です。
僕は一時「分からない」というのは自分の思いを優先しているだけではないか?とも考えました。けれどそれも含めた上での救いだと思います。
だから僕は「南無阿弥陀仏」に頼る他はありません。
南無阿弥陀仏

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