歎異抄を読んで、他力であることについて
歎異抄を読んで、他力でありたいと思うのですが、同時に生活していく中での恐怖や不安もあります。
この恐怖や不安を克服する方法を教えて頂けませんでしょうか?
お坊さんからの回答 1件
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
「恐怖」や「不安」の根本は煩悩
こんにちは、初めまして。
歎異抄を読まれたとのこと。
浄土真宗にご縁があったのですね。
お念仏の朋として、一言感想を述べます。
まず、「他力でありたい」と言われています。
「他力」は、=本願(阿弥陀如来様の根本の願い)力(はたらき)と考えていただけたら良いです。
すると、人間(衆生)の側が本願力でありたいというのは不自然な感じがしませんか。何故なら、願うのは阿弥陀様の側であり、阿弥陀様が主語になって成立していることを、本願(力)という言葉で表しているからです。
あなたは、恐らく自分の心持ちや言動によって、「自力」になったり「他力」になるというイメージで言われたのだろうと思います。これは、正しくありません。
「他力」つまりご本願は、ただ聞くものです。もっと言うならば、聞き信ずるものです。人間の側が、どうこうコントロールするするものではありません。
これを踏まえた上で、「生活していく中での恐怖や不安を克服する方法」があるのかどうかを考えていきましょう。ただ、具体例がないので一般的な答えになります。
わたしは、「恐怖」や「不安」があります。
恐らく、これは生涯尽きないでしょう。
そもそも、「恐怖」や「不安」の根本にあるのは、煩悩です。
つまり、自己中心の心です。
自分の思い通りにいくか、いかないかという「不安」。
何より可愛い自分の生存が脅かされるかどうか、という「恐怖」。
煩悩がある限り尽きません。
現に、親鸞聖人も晩年にあって、煩悩はとどまらず、消えず、絶えずと言われています。
ただ、その「不安」や「恐怖」が、阿弥陀様の懐にある上での話かどうか、は大きな違いです。阿弥陀様と共に歩む人生に孤独はなく、阿弥陀様と相談しつつの人生に「不安」も「恐怖」も乗り越えていける心強さを賜ります。
私の理解は以上です。
ご参考になれば。