選択的夫婦別姓に反対する人々の理由
選択的夫婦別姓制度に賛成のものです。
日本の現制度では認められないことも理解しており、もしも『戸籍の仕組みや手続きに関しては全国民分の修正が必要なので難しいく技術的物理的に今の時点では出来ない』というような行政からのメッセージであったり、『そのような大掛かりな変更に税金を使用されたくない』という意見には納得出来ます。実際に変更したら、今のような仕組みでは役場の負担は計り知れないことは容易に想像がつくからです。
しかし世の中には「伝統が壊れる」「家族として成り立たない」といった計測出来ない理由で反対される方がおられます。
選択的という言葉の通り同姓でいたい人はいれば良く、関わりのない他人のことに何故そのような拒否反応を示されるのか、お坊様は分かりますでしょうか。
また仏教の観点から見ると、夫婦別姓を望む側と反対する側はどちらの意見が正しいのでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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仏教の視点では苗字自体が否定される面があります
私はプロフィールにあるとおり、カナダの仏教に興味を持っています。カナダは夫婦別姓OKなので、私を泊めてくれた日系人(奥さん)は日本の苗字、その旦那は英国系の苗字です。「どっちでもいい(別姓でも同姓でもよい)ので、迷ったが別姓を選んだ」と奥さんはおっしゃっていました。それが常識になっていますので、カナダ社会では別に夫婦別姓だからといって何も問題はないように見えます。
カナダの場合、男女同権とか離婚が多いとかさまざまな理由があるのでしょうし、韓国などは男尊女卑なので夫婦別姓なのですから、理由も国によりさまざまですよね。
私個人の考えからいうと、どちらかを選べるのがよいように思います。同性になる(姓をかえる)のは、「自分はそこの人間になるきるんだ」という覚悟の証みたいなところもありますから否定されることばかりじゃありません。
別姓は仕事でのキャリアからすると、その方がよい面は確かにありますね。途中で姓をかえた研究者の論文を探すのはシンドイこともありますから、仕事上のお名前はかわらない方がよいのは間違いないです。なかにはお寺に入るということで、苗字も下のお名前も両方をかえる方もあり、同一人物だと知っていないと困ることもあります。だから、あなたのおっしゃることはよく理解できます。
ところで、仏教では苗字はあまり重要じゃありません。明治に入り徴兵制とリンクする形で皆が苗字を持ったという経緯はご存知かと思います。このとき、お坊さんにも苗字がついたのですが、
1.お経に、仏弟子はみなお釈迦様の子どもなのだから釈という字をいただいて苗字にしよう、という内容のことが書いてあるので、「釈」「釈氏」などと名乗った一群があり、
2.政府のやり方に反抗して「坊さんに苗字をつけよとはけしからん」とみょうちくりんな苗字や漢和辞典にもないような苗字を名乗る一群があり、
3.坊さんになる前の一族の名を復活させた一群があり、
4.私のとこみたいに親鸞聖人が藤原系の日野家の出だから、「日野」とか「藤田」「藤澤」「藤岡」等と近所の寺同士で相談して決めた穏便系の一群があり、
そして、
5.住んでいる所の地名をそのまま苗字とした一群もありました。
ときに苗字に誇りを持つ坊さんもいますが、苗字は俗世のものです。家を捨てた出家を建前とするので苗字への関心は薄いです。
怠けと執着からくるイライラムカムカ
私たちには怠けの煩悩があります。
新しいことに挑戦するのは面倒くさかったり、予期せぬデメリットに出会うリスクがあるので、怠けの煩悩が発動し、「今までどおりが良い」と思うのかもしれませんね。
親子や兄弟で同じ氏を名乗るのは、分かりやすいですから、「楽」です。
親のフルネームを知っていれば、その子供の名前は下の名前だけ憶えればよいので、お坊さんにとって、檀家さんの名前を憶えるのは楽かもしれません。
あとは、なんとなく、長年続く伝統を壊すのはもったいない気がするという、文化への執着という煩悩もありますね。
夫婦別姓も、慣れてしまえばそれが新しい文化になるのだと思います。
怠けや執着の煩悩は、ストレスの原因になります。
人は、ストレスを感じるとイライラムカムカしやすいので、反発や批判したくなるのかもしれませんね。