遺骨を食べたいと思っています。
母が亡くなりました。
私は決して良い子どもではありませんでした。
ですが、私なりに母を愛していました。
生前、確執があり、あまり母に会うことがありませんでした。
寂しい思いをさせました。
今、49日までの間、母は私のところにいます。
遺骨に話しかけ、お線香をたき、食事を供え、過ごしています。
49日に納骨をするのですが、そうしたら、なかなかお墓には行けないでしょう。
離れるのが、寂しくて、納骨も本当はしたくありません。
遺骨を食べたい、そしたら、ずっと一緒にいられる。このところ、その思いで頭がいっぱいです。
いけないことでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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いつもあなたのそばにいらっしゃいます
ご質問有難うございます。
拝読させていただきました。
愛しているものとの別れは、本当に辛いものでございます。
大切であれば大切なほどお辛いことと思います。。
死とは、人間にとって避けては通ることのできない最大の苦しみです。
どんなに権力があっても、お金があっても死というものから逃れることができません。
人はうまれおちた瞬間から、死に向かって歩き続けております。
大切な人の旅立ちというと、どこか遠くにいってしまったように感じてしまいますが、実は、みみんさんのお母さんはすでにあなたの身体の中におります。
「みみんさんの頭はお母さんの頭 みみんさんの足はお母さんの足
みみんさんの十指はお母さんの指 みみんさんの口はお母さんの口」
なのです。
今、されているように話しかけられ、お線香をたき、ごはんをお供えする。
生きているように接していると、きっといつまでもみみんさんのそばにいてくれて守ってくれますよ。
また、お母さんを大切にすることと同じように、ご自身のことも大切にしてください。
ご質問のお答えにはなっていないかもしれませんが、私はそのように感じずにはいられません。
みみんさんの今後の人生が豊かなものになるようにお祈りしております。
この本を読んでみてください。
意味ないです
食べたら一緒にいられるのでしょうか?
だったら、すでにあなたはお母さんの母乳(血液みたいなもの)を飲んでいますから、ずっと一緒だったのです。
焼かれた燃えかすの骨を食べても意味はないと思いますよ。
でも、食べたいなら、ちょっとだけ食べてみてはどうでしょうか。
身体に良いとは思いませんが。。。
質問者からのお礼
やさしいお言葉を頂きました。
ありがとうございます。
私はどうしていつも自分勝手なのでしょう。別れの恐怖や、最期にすら一緒にいることができなかった後悔や、冷たい娘だったことの懺悔や、これから生きていくこと・生きていけないと思ってしまうことの不安から逃げるために、このどうしようもない欲求がきているのだとわかっていて、それでも、この自分勝手な思いにしがみついてしまっているのです。
すでに私の中に、母がいるのですね。私の手は母の手、なのですね。ああ、きっとそれは本当なのだろうと思ってもなお、能動的な行為でないと私はそれを感じることができないほど、鈍感で自分勝手な人間なのです。