過去を消さずに友達といる方法が知りたい
私は友達に執着しやすいです。学校でその友達とは日頃一緒に行動したり遊んだりするのですが、コロナで直接会えなくなってLINEなどのやりとりをしていました。しかし、私は自分で思っていたよりも心が強くなかったようで、その友達と直接会いたいばかり考えていました。その友達は外に出ることに物凄いストレスがかかるそうなので遊びに誘ったら嫌われるような気がしてきて誘えませんでした。最終的にLINEで話しかけることすらできなくなって、でもTwitterで繋がっているのでそこでうっすら話していました。Twitterではその友達が別の人と仲良く会話しているのを見ることができるので見るたびに相手を消したくて、見ることをやめようとしても、見ていない間にその子と仲良くなっていたら許せないからまた見るの悪循環でした。
そんな嫉妬する自分が嫌いで嫌いで、そんな自分を許せないので、その友達から距離を取ろうとしました。物理的に距離を取るのは無理だったので精神的に距離を取ろうとしました。その友達と一緒にいるためにまずこの執着を消さないといけないと思いました。他人は変えられない、自分は変えられる、そう聞いたので自分をかえることにしました。変える方法としてまずその友達への気持ちを消そうと考え、消すためには楽しかった記憶を焼いて灰にすれば自然とその友達への感情も消えると思って、頭の中で楽しかった記憶を燃やすイメージトレーニングをしました。本当に焼けたかは分からないけれど、だんだんと思い出せなくなってきました。そうしたらその友達への一定の好きという感情は残ったのだけど、決定的に大好きと思うに至った記憶が思い出せなくなりました。
それで自分は楽になったのですが、大事な記憶を焼こうとした事実は自分の中に残っているので、心にぽっかり穴が空いたような気がして寂しい、虚しい気持ちだけが残りました。忘れたく無かった。
そして別の視点から見ると、友達は楽しかった記憶を私と共有したくても私が鍵をかけて思い出せないので出来ないということになると思います。それは友達から見るととても寂しくて辛いことでしょう。
だからと言って私が楽しい記憶を持っておくだけの強い心がなく、それでもその友達といたかったが故の記憶の封印というか消去なので、もうこれ以上どうすれば良かったのか自分では思いつきません。アドバイス等お願いできますでしょうか。
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執着と慈しみ
拝読させて頂きました。友達への執着が強いとのこと。人間関係の難しさ、互いの踏み込み度合いの距離感、愛憎の問題など、色々と葛藤を抱えていらっしゃるようですね。「ハリネズミの論理」という言葉を思い起こしました。これは昔私も人間関係で同じような悩みを抱えていたことがあったので良くわかります。
恐らく貴方は、友人と呼ばれる方々を「わたしのもの」にしたいのではないでしょうか?別の言葉で言い表せば「わたし」というものが作り出す円のうちに囲い込みたいといった方が良いのかもしれません。
自分がその人に必要以上に干渉すると関係が崩壊するのを恐れて必要以上に近づけない。これは自分の作る円を自らが壊してしまう怖さです。あるいは友人が他人と親しくしている姿を見て、まるで自分の円に了解しないものが土足で踏み込んできたような不快感(嫉妬)を感じること等。
貴方は円を維持する苦しさに耐えきれず、その友人そのものの存在を意識から消そうとしたら、今度は今まであった円に大きな穴が空いてしまい、深い喪失感に襲われているということなのかと思いました。
ここで私がいう「円」というのは、我執の円です。別の言葉で言えば「私が自由自在に思い通りにしたいもの」の範囲です。だけど実は人生で「私のもの」と思っているものは、例え自分の肉体でさえも、思い通りになるものなど何ひとつ無いんですよね。なぜなら肉体はいつか老い、自由にならなくなり、必ず死が訪れます。自分の肉体さえもそうなのですから、友人と呼べるもの、家族と呼べるもの、あるいは自分の所有していると思う物、何一つ思い通りになる「私のもの」などない訳でして、だからこそ人生は苦しく、そして儚いものなのだと思います。
こう言ってしまうと何一つ救いのない話になってしまいますが、仮に見方を変えて、お友達との付き合いで楽しかった記憶というのは、果たして我執のうちに入るでしょうか?相手が楽しそうだからこそ、自分もうれしい、心が通じ合った、だから楽しかった記憶なのではないですか?これは他者の幸せを自分の幸せにする尊い心で、執着ではなく慈しみの心。他と通じ合っているから壁のない平等の心。我執の軛を打ち壊す仏の心と仏教では捉えます。どうかこの心は大切にして頂ければと思います。