出家の是非について
長文で失礼します。
下記のような問いを持っており、その考究(あるいは超克)に残る人生を費やしたいと考えております。
現在そのための生活様式を模索中で、出家もひとつの選択肢として考えております。
早速質問ですが、
①下記のような問いは、仏教の中で取り組むに値するのでしょうか。
②考究にあたり、仏教はもちろんなのですが、その他の学問の助けも借りたいと思っています。出家した場合それは可能でしょうか。
ご回答いただければ幸いです。
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私は相互作用の世界の中に生きている。それはすなわち、常に他者に対して影響を及ぼしている、ということ。しかし、そのような在り方は自然・当然なこととして無視されてよいものではない、と私には思われる。
私の眼前には生きるか死ぬかの選択肢が平等に与えられており、自覚的にしろ無自覚的にしろ、前者を選んで生きている。裏を返せば、私には自死という、他者への影響を自発的に止められる能力が備わっている。
一般的に生きることは尊いとされ、自身の幸福の追求が当然の権利としてみなされている。しかし私が生きるということには、他者の生や意志を損ねる、負の影響が必ず伴う。
そうであれば、生とは害悪ではなかろうか? その害悪性を無視してまで、この生は礼賛されるべきものなのか? 私はただ、生きたいという自分本意な欲求に盲目的に従っているだけではないのか? 生と死を選択肢として与えられている私が、なお自分を生かし続けるのはなぜなのか? 私が生きようとすることを、私はいかにして是認できるのだろうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
ヘンな世界
出家得度をされるにあたり、あなたの動機は決して間違ってはいないと思います。どちらの宗派で僧侶になられるのかは存じませんが、仏教に学ぶ者がひとりでもふたりでも増える事は、私としても大変に慶ばしいことです。
"出家もひとつの選択肢として考えております"
しかしながら、出家の他にもいくつかの選択肢があるのであれば、もしかすると一番最後の候補にしていただいたほうがよいかもしれません。お寺にはお寺の一般世間とは違う世間があり、しがらみがあり、古き悪しき慣習との戦いでもあります。僧侶になってしまえば、残念ながらおそらくどの宗派に属したとしても、少なからずガッカリされること間違いなしです。意外にも、純粋に仏教の勉強ばかりしていられないのが、日本の坊さんの現状だったりします。
結論までに、しっかりと吟味されることをオススメします。
仏教学者になる。
出家=お寺に住む
とは限りません。
宗門の大学に残れば
あなたが求めるものを
そこで研究し続けることは可能でしょう。
異分野との交流もあるはずですから
②も可能です。
質問者からのお礼
ご回答くださりありがとうございました。
お礼が遅くなり申し訳ありません。
質問してから、2冊の本を読みました。
ひとつは、「ツァラトゥストラはこう言った」/ニーチェ。
これは、悟りを得た一人の人間、生を絶対的に肯定する人の体験記でした。
選民思想の気はありますが、共感するところが大いにありました。
もう一つは、「禅仏教入門」/鈴木大拙。
もともと私は、昨年、ひとつの大きな精神的転換を経験していました。
質問中の問いを問いと認識したことがそれです。
この本は、私のその体験が悟りであったと教えてくれました。
そして、私の現在の視座が、禅の入り口に立っているらしいとも示してくれました。
無我、陰徳、無功用行。
これこそ私の探していたものでした。
もし二人の個人がおり、両者がともに禅者であったならば、その間にはいかなる侵害も生じ得ない。
被害者と加害者の二項対立は消滅してしまう。
そして各人は、生きるべき時に生き、死ぬべき時に死ぬ。
自死は手段として手元にある。
ただそれだけである、と。
私が問いだと思っていたものを全く無効化し、生を絶対的に肯定するには、禅の民主化こそ目指すべきところだと得心しました。
そして私が今向かうべき先は、正統な禅仏教の体得であると確信しました。
結論としては、臨済宗にて出家しようと考えています。
こちらで質問し、回答をいただけたことで、吟味する時間を得ることができました。本当に幸いでした。
改めて、ありがとうございました。