友人との会話を反芻してしまいます
ずっと思い出しては苦しんでいる出来事があります。
英語の趣味サークルに入っていたときに英語でも日本語でも喋りまくるAさんという人がいました。その方は英語力に問題はなさそうでしたが、何かコミュニケーションに問題を抱えていて喋りすぎてしまうばかりに鬱陶しがられているというのが私の認識でした。
ある日、当時仲良くしていた友人が「Aさんの英語よくわからない」と言いました。彼女は確かに羨ましいくらいセンスのある人なのですが訛りがある人のことを「あの人の英語わからないから興味ない」などと言って他人の英語を批判する癖のある人でした。
私はAさんの英語を批判するのも良くないと思いましたが彼女を完全にも否定できず、「まあ確かにわかりにくいかも。私は日本人だしあの訛りで教育を受けてきたから少なくとも何の単語言ってるかはわかるけど、Aさん抑揚なくて全部の単語がゆっくりだから集中力途切れて途中でなに言ってるか忘れちゃうときあるな。英語の発音が完璧にできるようになるかどうかは才能もあると思うけどそれっぽく寄せる努力なんでしないのかなって思う時は正直あるよ」と言うと、「あなただってなに言ってるかわかんない。あなたも含めてみんな練習必要なのに一人でベラベラ喋って皆んなの喋る機会を奪っているのが許せないって言ってるだけ! 英語が完璧じゃない人の話し長々と聞きたくないんだよ。知ったかぶりして自慢しないでほしい!」と、私の英語も貶されて落ち込むわ一緒になってAさんの英語を批判してしまった自分にも落ち込むわで思い出しては嫌な気分になっていました。
別の友人に私の英語力について聞かれたときに自分はまったくの初心者よりは喋れるけれど完璧とは程遠いので「ペラペラでもなんでもないけれど一応勉強はした」とこたえました。それを彼女はじっと聞いていました。
数ヶ月後、彼女はまた「Aさんの英語わからない」発言をしました。今度は別の人から同意されて上機嫌でした。そしてちらりと私の方を見て「Aさんは勉強したってことをアピールしたいだけなんだろうね」と付け足しました。
それで彼女はAさんの悪口を通して私を批判したかっただけなんだと悟りました。
もう数年前のことですが未だにこの出来事を思い出して嫌な気分になります。どうにか考え方を変えて乗り越えたいです。
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その人のこと、そんなに大切なのですか?
こんばんは。数年前に「自分の英語(の発音)について回りくどく批判された」のを思いだし、嫌な気分になるということですね。
その後、あなたは英語について上達したのでしょうか?「あー今なら言われないだろうな」と思うほどに上達しているならば、彼女に感謝してもいいほどですよね。
けれど、それが今でも嫌な思い出として再生されるのは、恐らくご自身の不甲斐なさがトリガー(引き金)になっているのではありませんか?失礼ながら。
ところで、英語が上達すると何か良いことがあるのですか?
より多くの人とコミュニケーションできる…? 私にはそれ以外に「英語が上達する価値」は感じられないのですが。インド人もかなり訛りがありますけれど、カタカナ英語とインド英語で喋って楽しいですよ?
はい、「どうにか考え方を変えて」とはこちらです。「より多くの人と会話できるようになったんだから、訛りとかはもういいや」と、文字通り拘りを捨てることです。会話の楽しさや実りは「その内容」によります。これは何語でも同じですよね。
追記
「お礼」欄の書き込み、拝読いたしました。
「誰にも文句を言われないレベル、ではない」という自己認識が今回の発端にあるのですね。「そこへの拘りを捨てませんか」というのが私からの回答だったのですが、いかがでしょうか。
「その人のこと、そんなに大切なのですか?」というのは、その「批判してきた方」を指していますが、実際「それで動揺してしまった私」が問題を生じているのです。「批判されることもあるけれど、それでいいや」という「考え方の変化」ができれば、その時に英語がどんなレベルであるか、は関係ないのです。
質問者からのお礼
ありがとうございます。
ごもっともです。私が完璧であれば何も言われもしないし何の問題もないことです。日本人同士の馬鹿馬鹿しい小競り合いについ参加してしまうのも私の英語が誰にも文句が言えないレベルではないからです。
英語が上達したところで私にはその人に感謝することはできないですが。
彼女に言われたのは訛りではなく緊張して余計な言葉が多くなってしまうことで、自覚しているので「それすごく先生にも言われるし直さないといけないところなんだけどなかなかうまくいかないんだよね」と言ったところ「ほらね、練習が必要ない人なんていないんだよ。なのにAさんは」とすごく勢いづいて話され、他人の訛りを指摘してしまったことを含めて私の慢心を指摘するのが大変嬉しそうで、言いたいことだけ言って去って行きました。本当は機会平等なんかより私を批判したかっただけなのに誘導尋問に乗ってしまったバカな自分が許せないです。
訛りの方も完璧には抜けず聞き取りづらいことがあるようですし、外国人と話したときに訛りがあるキャラのように扱われてそこでコミュニケーションが終わってしまうのが嫌で今も特訓中です。
でも強い訛りがあっても人格的に素晴らしく、会話に中身のある論理的な人は訛りにだけ注目されて終わる人にはならないこともわかります。
ずっと英語がもう一段ステップアップできたら仕事の幅も広がり、今の仕事も随分楽になるのになと思いながらなかなか抜け出せないでいて、こんなことぐちぐち考えている自分が嫌です。
いつかもういいやとなれたらいいなと思います。
補足してくださってありがとうございます。
自分の質問と回答を読み返していて補足にお礼をしていないことに気づきました。遅くなりましたがありがとうございます。
その人のこと全く大切ではないのですが、なにかと他人が気にしていると思われるようなことをわざと指摘して意地悪なことを言うので、いちいちグサっとくるのです。それも私が勝手にグサっときていると言われればそれまでですが。
もうその人とは関わりがないのにその人の言葉が今も思い出されて辛いのはまあいいやと思えるようになるための修行だったんだろうな、と思います。
英語も実力不足と自分が思っているからそんな人の言うことが気になるのだと思います。
自分が思っているのと他人に言われるのは違うやっぱり失礼なこと言われたんじゃないかと思ってしまいますが、まあ、そんな人に何と言われようとまあいいやと思えるようになれるのが私の今生での修行の一つなのかなと思います。