自分を罰する事
何か失敗したと思った時、自分に罰を与えないと気が済みません。
一つは、暴言です。ほんの些細な失敗でも、自分に対して「お前なんか死ね」「出来損ない」「ゴミクズ」などと罵る言葉が止まらなくなります。
それから、自分の体を殴ったり、髪を抜いたり、大切にしていたはずの物を捨てたり、食事を摂らなかったり…といった行動に出てしまいます。
癇癪のようなものだと思うのですが、「大人の癖に癇癪を起こすなんて情けない」と自己嫌悪に陥り、また上述したような行動を起こしてしまいます。
昨日も仕事で失敗があり、今すぐにでも自分をどうにかしてやりたくてたまりませんそれこそ、仕事を投げ出してでも自分を傷付ける時間を作りたくなってしまうのです。
おかしいんだろうなとは思いますが、こんな事まさか誰にも相談出来ません。
どうしたらこのような思考や行動を止める事ができるのでしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
【我慢】私は失敗などするはずがない?
"「お前なんか死ね」「出来損ない」「ゴミクズ」などと罵る"
この言葉を発する張本人は、他でもないあなた自身でしょう。
あなたは「この私がミスなどするわけがない。」という【慢心】のひとつである【我慢】に立脚しているからこそ、そのように自分という相手に向かって、平気で毒づくことができてしまうのではありませんか?
自分はどんなに気をつけていても失敗することがある、知っているようで知らないことがたくさんある、至って平凡な存在なんだと【謙虚】な心を持っていれば、ミスを犯した者(自分)に制裁を加えてやろう、罰してやろうとするのではなく、今度こそミスしないような仕組み作りや、ミスした後のフォローについて、きっと思案を巡らすようになるでしょう。
あなたの行き過ぎた快楽
お話聞かせていただき、お釈迦様の修行のことをご紹介したいと思いました。
お釈迦様は苦しくストイックな修行を行い、あるきっかけで、
行き過ぎた苦行(くぎょう)は、行き過ぎた快楽と同じである
と気づかれました。中道(ちゅうどう)という考えです。
一言でいうと、何事も偏らずバランス良く。
失敗や反省を自ら戒め、省みることは大切なことです。
しかし、行き過ぎた戒めはあなたの快楽、すなわち、こうせねば気が済まないという欲求を満足させることに目的が変わってしまっています。
好きな食べ物も、お腹を壊すまでそれだけを食べ続けたりしませんよね?
同じ要領で、好きなことに没頭し過ぎていないか、少し引いた目で見てみてください。
毎日好物の食べ過ぎでお腹を壊していないなら大丈夫。
食べることは良いことだけど、食べ過ぎは良くない。
お釈迦様も、バランス良く生きるという当たり前のことを修行の末に気付くほど、苦行に偏ったのでしょうね。
質問者からのお礼
ありがとうございます。