謝罪したい気持ちと許されたい気持ち
はじめまして。
今回相談させて頂きたい事は、許されたいと言う気持ちがあったら、真摯に謝罪したいと言う気持ちではないのか、と言う事です。
どういう事かと申しますと、私には以前 私の言動によって傷つけてしまった友人がいます。
それが原因で相手に拒否され、絶縁状態になっています。
私自身、その事が忘れられず気になっていて謝罪をしたいと思っています。
それは相手方を傷つけてしまった事への申し訳なさからくるもので、例え許されなくても仕方ないと思っています。
同時に、過去にしてしまった事は謝罪し反省しており改善するので、許されたいと言う気持ちがあるのも事実です。
許されたいと言う気持ちがあったら、それは自分の利己的な気持ちであり、謝罪とは言わないのではないか、そう思うようになりました。
同時に、許されなくても良いから謝りたい、もしそう言う気持ちになったのであれば、それはむしろ完全な自己満足でありそれこそ謝罪ではないのではないか、とも思ってしまいます。
謝罪とはただ過ちを反省し、相手に自分が間違っていたことを認め、謝る。
ただ、悪い事をしたから謝る。
許すかどうかは相手が決める事。
そう思いますが、どうしてもその上で謝るのは自己満足かなと思ってしまいます。
だったら、自分が悪かった事、反省している事はしっかり認めた上で、どうか許してほしいと許しを乞う方が、健全なのかな、とも思います。
もちろんそれでゆるされるかは別として、ですが。
自分がした事に対して反省してますし、その事は伝えたいです。
しかし、もし相手がやっと過去の事を忘れかけていて、今回私が謝る事で傷ついた過去を思い出したら、そう考えると謝らない方がいいのかなとも思います。
謝る事と許されたい気持ちへの解釈をお聞きしたいです。
許されたい気持ちを持ったままの謝罪は、謝罪とは言えませんか?
許されないと理解してるし許されなくていいけど、あの時は申し訳ありませんという事こそが真の謝罪でしょうか?
私が謝るべきかどうか、最終的にどういう心持ちでいるべきかは私自身が決めるべき事ですが、お坊さんの考えが聞きたいです。
お忙しいとは思いますが、どうぞよろしくお願いいたします。
お坊さんからの回答 1件
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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雑毒の善
ご相談拝読しました。
こういうことは考えれば考えるほど深みにはまってしまうかもしれませんね。もちろん考える事も大事ではあるのですが。
さて、およそ人間のなすことに完全なる純粋の善ということは成り立たないと見る眼が仏教にはあります。雑毒の善と言います。
表向きは善いことに見えることでもその背景やそこにはどんな利己的な思いが隠れてるいるかはわかりません。あなたはそれを自覚なさっているのでしょう。
では、それをなくしてから謝ろうというのでなく、その利己性を引き受けた上でそれでも謝るというのはどうでしょう。
自己満足の要素が少しでもあるならば謝らないというのでなく、たとえ自己満足であろうとも、謝るべきことを謝るのです。
それで相手に不快感を与えたのならまた謝ればいいです。関係を断たれたのならそれも縁でしょう。
「真の謝罪」にこだわって結果的に謝らないよりは、まず謝ることから始めてみるというのもありではないでしょうか。
利己性は利己性でもって破ることは出来ません。あなたの利己性を破るのはあなたではなく相手なのかもしれません。
あくまでもご参考まで。おっしゃる通り決断はあなたの主体的な選択でどうぞ。応援しています。
質問者からのお礼
お早いお返事ありがとうございます。
雑毒の善という仏教の教え、とても分かり易かったです。
仰るとおり、考えすぎていたようです。
自己満足であってもまずは謝るという事を優先したいと思います。
それで伝わらなくてまた怒られても、受け入れられず拒否されても、言いたい事を言えないまま絶縁が続くよりはいいと思いました。
吉武文法様の助言のおかげで決心がつきました。
今しばらく、自分の気持ちと向き合って、相手方に対する謝罪の気持ちを完全に言葉にする事が出来たら、連絡を試みて謝罪をしたいと思います。
ありがとうございました。