無性に死にたくなります
はじめてこちらで質問をさせていただきます。
わたしは12歳の頃から死というものをよく意識するようになり、定期的に虚無感や死に対して憧れるようになり、今年29歳の年になりました。
両親健在で今の今まで不自由なく育てていただきました。社会人になり、一般的な生活は自身の給与で送れています。友人はとても少ないですし、恋人といえる人もいませんが、不自由はなく生きています。
ただ、無性に死にたくなります。
何故だか涙が出てくることが多々あります。
何故、人に嫌われ、迷惑をかけてまで働いて、生きていかなくてはならないのでしょうか。
何故、老後の生活を心配してまで、今お金を稼がなくてはならないのでしょうか。
何のために生きてるのでしょうか。
人並みなしあわせは感じられています。
でも、死んではいけない理由ではないと思います。
わたしが死ぬと悲しむ両親の顔は想像できます。が、わたしが死ぬことはいけないことなのでしょうか。両親には悲しんで欲しくないですが、わたしは消えてしまいたいです。
何故こんなに死に憧れるのかわかりません。
ただ、生きる意味というのがそもそもない気がしてなりません。
両親が亡くなったらすぐに死ねるのに、とさえ思うこともあります。
何故、生きているのか。
何故、死ぬことは悲しまれるのか。
何故、死んではいけないのか。
何故、死は魅力的なのか。
お考えを教えていただきたいです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
死んだら終わりじゃなかったらどうしますか?
お釈迦様の時代にも自死自殺した方々がありました。お釈迦様は自死自殺した方々について特別には何もおっしゃっていません。
その理由が何なのかははっきりとは分かりませんが、仏教が輪廻転生を前提としていることを考えると、死んで終わりにはならないからだと思うんです。自死自殺してもゼロに帰してしまわなくて、また次の迷いの世界に生まれ変わって苦しみが続いていく。その連続はどんな死に方でも変わることはないのだから、特別視なさらなかったのだろうということですね。
日本人は、輪廻転生をあんまり深く信じていないので、自死自殺したらそれで一発解決みたいに思ってしまうのですが、仏教ではそう考えません。そう答えさせていただいたら、あなたはどうお考えになるでしょう。
輪廻転生していくなかで人間に生まれてきた意味を、仏教では仏教に出合うためであるとも考えます。輪廻転生、つまり迷いの連鎖から離れる修行ができるのは人間だからである、と考えるからです。簡単な話、ミミズや魚は生きることの意味なんて考えていないし、修行もできません。そんなこと考えるのは人間だけだと言えます。
死ぬのも生きるのも、究極的にはあなたのご自由ですが、仏教の考え方ではあなたが自死なさっても解決になりません(迷いの世界に輪廻するからですね)。輪廻しない教えを学んで覚ってからでないと、自死しても意味はありません。せっかく人間に生まれておいでになったのですから、仏教を学んで輪廻をこえる道を見つけてから自死されてもよいのではないでしょうか。いま死ぬのは解決にならないという点で早すぎます。
御礼を頂いてから追記
死んでも解決にならない、仏教を学ぶのがよい、という私の回答の中から、前向きに生きるヒントをつかんでもらえたら、と思い回答の文を書きました。
生きることに意味を見い出せないと、生きていることが無味乾燥に感じられ、自分なんていなくてもいいじゃない、ということになります。お釈迦様の教えに触れていただくことで生きる喜びを得ていただけたら、と願っています。
質問者からのお礼
数ある質問の中からご回答頂きありがとうございました。
仏教と出会うために生きており、
仏教を理解し学ばない限り、
死してもなお輪廻転生から外れることはなく
同様の生が繰り返される。
ということでしょうか。
仏教でも輪廻転生という仕組みがあり、その仕組みからは逃れられない。
生きてる間に仏教を学ばないと何も変わりない。
だから今生きようが死のうが勝手。
繰り返されるだけだから。
ミミズや魚が考えを持たない気持ちがわかる気がします。ありがとうございました。