人生・生きる意味ってなんでしょうか?
知人のお子さんが病気になってしまいました。
治療に5〜10年、手術も必要になるそうです。
遺伝性の病気の可能性もあり、知人は自分のことも責め、落ち込んでいます。
治療をする本人が1番大変ですが、支えることしかできない家族も辛くて仕方がないと思います。
何も悪いことをしていないのに
どうしてこんな試練を与えられる人がいるのでしょうか。
人生って、生きる意味って一体なんなのでしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
「試練」ではあれど、「罰」ではない
釈迦は、この世の一切の事象は皆因縁により生ずる、と説いたそうです。
しかしながら、らららさんの仰るように「何も悪いことをしていないのにどうしてこんな試練を与えられる人がいるのか」と考えてしまうのはごもっともだと思います。
良い行いをしたから報われる
悪い行いをすれば報いを受ける
それがこの世の摂理であるのならば、なんとも簡潔で分かりやすいものです。
しかし、いざ現実に目を向けてみると、世の実相というものはそれほど単純なものではなく、複雑怪奇で、不条理にも見えます。
人生の意味、生きる意味というのは、必ずあると私も考えています。
しかしそれが何なのかという問いは、容易に解くことができません。
熱した鉄を口に含んだかのように、飲み込むこともできず、吐き出すこともできず、時間をかけて、長い人生の歩みの中で咀嚼している。
私自身も、そうしてこの問いと日々向き合っております。
知人ご家族が今向き合っているご病気のこと、大変なご苦労をされていることと思います。1つ私が申し上げられるなら、それは「試練」ではあれど、「罰」ではない、ということです。
遺伝性の病気であったとしても、それはご両親が悪いというわけではありません。産んだことを後悔しては、お子さんがあまりに不憫です。ご家族皆で支え合い、手を取り合って乗り越えていくための、今世における「課題」とお考えになるのが良いのではないでしょうか。これが釈迦の言う因縁であるのなら、必ずやこの課題を乗り越えた先に、何物にも代えがたい尊い学びがあるものと思います。
らららさん、知人ご家族の念が果てに報われますよう、ご祈念申し上げます。
ご質問の前提を考えて
こんにちは、初めまして。
あなたの「知人」と「知人のお子さん」をご心配になる、その御心情をお察しします。その前提で所感を書きます。
お経には、「独生独死」「無有代者」とあります。
つまり、人間はいかに代わりたいと思っても他者の人生と代わることはできない。その意味で、人間は自分の生を自分自身で引き受け、根本的に独りで歩まざるを得ない、と説かれています。
あなたは「人生って、生きる意味って一体なんなのでしょうか」と問われていますね。それは、あなたが自分自身にとっての「人生」「生きる意味」を問う場合にのみ有効な問いです。第三者であるあなたが「知人」、「知人のお子さん」の「人生」「生きる意味」を問うことは、あなたにはできません。あなたにとっていかに気の毒に思えても、「生きる意味」はご本人たちにのみ見いだせる問いであり、答えです。
次に、あなたは「何も悪いことをしていないのにどうしてこんな試練を与えられる人がいるのでしょうか」と言われています。
まず、あなたが思う「試練」とは、どういう世界観での言葉でしょうか。
神が人間に苦難を与え乗り越えさせ、その過程で神の存在に気づき感謝するように働きかける、というイメージで「試練」と言われているのでしょうか。それとも別でしょうか。
一般的にこの「試練」を与える神と仏を混同して、大災害や悲惨な事故が起きるのは神仏がいない証拠だ、といわれる方がおられます。これは完全な誤解です。
仏様は、人生の真理に目覚めたお方であり、慈悲を垂れるお方のことです。
森羅万象を自在に操る超自然的存在ではありません。
大災害や悲惨な事故等が起きるのは、様々な環境的、人為的な縁が交錯した結果です。そこには、超自然的な存在の何らかの意図は介在していないと考えます。
質問文が短いので、あなたの問題意識や背景も分かりませんので、この辺にしておきます。
質問者からのお礼
釋 悠水様
ありがとうございます。
人生・生きる意味は本人にしか問うことができない、という言葉にはっとさせられました。
試練の意味するところについては仰る通りです。
わたしの知識不足でした。
仏様は事象を操っているわけではないのですね。
勉強になりました。
大心様
ありがとうございます。
試練ではあれど罰ではない、そのお言葉に救われました。
課題を乗り越えた先に幸せがあることを願っています。
ただ、願うことしかできない自分が無力です。