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死についてのさまざま

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有り難し有り難し 10

先日、祖父を亡くしました。半年前には祖母を亡くしました。
2人とも僕にとても尽くしてくれて、人間としても素晴らしい方々でした。

祖父の最後は僕のために洗ってくれたお風呂の中でした。少し発見が遅れてしまい、1人にさせてしまったことが今でも悔しいです。
祖父が使って、洗うために台所に置いてあった食器を供養の気持ちを込めて洗っていた時に、ふと、もうこの食器を使っている姿を見れないんだなと思う気持ちと、生前に食器を使っていた場面が鮮明に思い出されて、保っていた涙腺が崩壊してしまいました。
その後もただ、祖父母のいなくなった部屋を呆然と眺めているだけで、喪失感、自分と2人との部屋での日々を思い出し、涙が出ます。

祖父は祖母が亡くなったのとほぼ同時に進行したがんの発見や老いによる身体の不自由。さらに仕事という生きがいを無くし、僕たちに生活の迷惑をかけていると思っていることや祖母の死になにもできなかったと悔やむ姿。とても辛そうでした。
亡くなってしまったことはとても残念ですが、夫婦一緒に納骨できること、辛そうな祖父が解放されたような気がして、これでよかったのかもしれないと。こう思ってしまう、僕は間違っているでしょうか?

そして、祖父母を亡くしたことで自分や家族、友人、大切な人が次にまた無事に会えるのか毎日怖くなってしまいました。
些細な不調なんかでも最悪のケースを常に先に考えてしまい、不安で無気力になってしまうこともあります。
寝てしまって、そのまま自分に何かあったら、それ以外の人もそのまま永眠してしまったらと自分が寝るのも家族などが寝るのを見るのも怖くて、あまり寝れません。

死とは突然で世界を一変させてしまうものだと祖父母に気付かされました。
誰かに聞いて欲しい。それだけを思って書いてしまった部分もありましたが、お許しください。
そして、どうかお言葉、知恵を与えてください。お願いします。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

本当の悲しみと共に、本当のいのちの姿を学ぶ

をかさん、大切なお話を聞かせていただき有り難うございました。おじいさん・おばあさんとも一緒に生活をされていたのですか。同じ屋根の下で過ごしたからこそ思い出もたくさんあり、その分、悲しみも深いことだと思います。だから、こんなにも出るのかと自分でもびっくりするほど涙がこぼれ出るのでしょう。そんな時は心のままに、どうぞ涙を流してください。その涙は、おじいさん・おばあさんがをかさんにとって大切な存在であったこと、大きな存在であったこと、それだけ愛されたことの証なのです。
 その悲しみは、同時に世界の価値観を一変させてしまうものだと、私も受け止めています。お母さまを亡くした40代の息子さんは、「諸行無常とはまさにこの事だったのですね」とつぶやきました。つまり、言葉で聞いていることと、それを体験することは、雲泥の差があるということです。その雲泥の差が、価値観を一変する力となるのです。いのちや生活の安定を願う私たちにとって、価値観が一変すると言うことは耐えがたいことです。をかさんのように、これからも大切な方をまた失わなければならないのかという不安を抱えることになるわけですから。
そこで、「一期一会」という言葉を思い出してほしいのです。いつの時代も、「明日のいのちの保証はない」のです。だからこそ、今日のただいまが大切で、この出会いは奇跡のようなものだ、とこの言葉は教えてくれます。
「諸行無常」という言葉も、一面だけを切り取ると『平家物語』にあるように、盛んなるものが衰えるさまと捉えますから、なんと悲観的な言葉だと受け止めることになります。しかし、本来この世の全てが「諸行無常」なのです。をかさんがお母さんのお腹に宿ったこと、十月十日育まれたこと、この世に生み出されたこと、これまで多くの方の関わりと見守りの中で一日一日生きてこられたことも、「諸行無常」の表れなのです。をかさんは、本当の悲しみと共に、本当のいのちの姿も学んでいるのです。
これまでの思い出を胸に、その思い出を作ってくれたおじいさん・おばあさんに感謝しながら、一日一日を大切に生きてください。しばらく悲しみは続きます。体の調子も変化をします。でも、太陽が変わらずをかさんを照し包んでいるように、仏さまと成られたおじいさん・おばあさんの導きは、すでにをかさんに届いています。このハスノハに出会ってくださったことが、その証です。

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有り難し
おきもち

1971年生まれ。本願寺派布教使・源光寺第14代住職 別名「絵本のお坊さん...
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質問者からのお礼

心のこもったお言葉ありがとうございます。
サイト内の他の人の投稿やそれへのお坊さんへのお言葉もいくつか拝読しました。僕と同じように大切な人を失い、悲しむ人が多くいて、自分が生きている世界も皆さんと同じ人間であるのだと改めて気づかされました。
そして、多くのお坊さんの考えを読ましていただき、自分にも当てはまるお言葉が多くあり、また涙が溢れました。そして、この悲しみをありのままに受け止め、次へ進めるような気がしてきました。
「諸行無常」、まさにこのお言葉通りだと思いました。そして、当然ながら自分もその中の一人である。そう思いました。僕も祖父母のように人に尽くし、何かを残せるような、「一期一会」の悔いのない人生を限りある時間で果たそうと思います。きっと、祖父母もそれを望んでいる気がしました。
これからも祖父母を心で想い、手を合わせ生きようと思います。

本当にありがとうございました。

「死について」問答一覧

死別シングルマザー

夫と死別し、半年経ちました。 死後の手続きなどでバタバタと、忙しくしていましたが、この頃PTSDの症状がでて、とうとう仕事にいくこともできなくなりました。 一ヶ月の休職ですが、休んでる間に収入の不安、子どもたちのこと…色々と考え過ぎてよけいに具合が悪くなっている気がします。 職場からは、また笑顔で戻ってくることを待ってますと温かい言葉を掛けてもらっているのですが、夫を看取った病院が職場の直ぐ側であることや、救急車が頻繁に通ることなどから、正直一ヶ月休んだところで復帰する元気があるかわかりません。何も前に進めない自分に自己嫌悪の毎日です。お金の不安と、パートナーを失くしたことから『風俗』で働いて少しでもお金を…と浅はかな考えも拭えません。時間が長く感じます。こんな姿を夫が見たらなんて思うだろう。夫じゃなくて、不器用な私が先に亡くなればよかったのにとまで考え込んでしまいます。周りには自分のように30代で配偶者を亡くした人はおらず、まるで腫れ物のように感じます。他の家庭を見ると、赤ちゃんが生まれた…家を建てる…夫婦仲良く子育てできてて自分にないものばかり目に映り、生きづらいです。

有り難し有り難し 6
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「周りの人間の死」への向き合い方

「周りの人間の死」への向き合い方が分からず、恐らく変な方向に価値観が向かってしまい、常に一定の苦しみを抱えてしまっています。 無理やり挙げるとすれば、恐らく一番大きなきっかけは、2年前に母の母である祖母が急死されたことだと思います。大きな病気やケガもなく元気に畑で過ごしていた祖母の急死に頭が追い付かず、又様々な状況を理由にしばらく会えなかったことや、恩返しなども出来なかったと感じたことによる後悔と主に、「人は急に死ぬこともある」といった至極当然のことに恐怖を覚える様になりました。 その"急死"は脳内で"事故死"等に変換されたようで、現在は「自分が何か人に頼むことで事故死するかも」といった恐怖をもってしまっています。私が親に頼んだ買い物の道中で死ぬかも、私が選んだ待合場所のせいで、指定した時間のせいで友人が死ぬかも、と思うと、所謂"普通の価値観"で人に頼る事、あまつさえ意見や提案事の提示も難しくなってしまいました。 正直自分の死は大して怖くはありません。ただ、もしそういった状況で知人が亡くなってしまえば、仮に明らかに自分のせいではなくとも「自分がこの人を殺した」と思ってしまうに違いないと感じています。又そういった気持ちを抱えてその後の人生を全うできるとは到底思えません。 バタフライエフェクトのレベルで「人の死に関与したくない」といった気持ちが大きくなってしまい、生き苦しさを感じてしまっています。 この価値観が、俗にいう「変・ずれている・間違っている・過剰」ということは頭では理解できているつもりです。ただ、どうにも心がこういった考えを除いてくれません。 もし仏教などを用いて少しでも楽に生きることが出来るのであれば、と思い、相談させていただいている次第であります。ご意見をお伺いできますと幸いです。よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 2
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病気になって死を考えるようになった

現在,一人暮らしをしている中年男性です。 先日から病気をしています。病気になって,一人暮らしなので,闘病しながら食事,洗濯の家事をしないといけません。また,食事のための買い出しも必要で,誰か助けてくれないかと,常に考えています。 知り合いに食事を作って持ってきてください,といった厚かましいお願いはできないもので,そういったお願いができる知り合いがいるわけではありません。 闘病を続けながら,食欲もなく,痩せていくし,気力も失ってきています。 また,コロナ禍で,一人亡くなっていった方もこのようなつらい状況であっただろうと想像し,そのため可能であれば入院させていただいて,看病していただけないかと,勝手な思いが巡ります。 そして,こんなに苦しい状況なのに,これを乗り越えて「生きる理由」はあるのだろうかという考えが頭をよぎっています。 ある程度の人生は送ってきました。これから先もいろいろと楽しみもあると思いますが,生老病死は,四苦なので,病気を克服するのも,その後,克服した後に生きていくのも苦しいのだろうと,勝手に解釈をしたりします。 だったら,もうここでいいや,と思ったときは,死ぬことができたらいいなぁ,眠るときにこのまま目覚めなければいいな,と考えるようになっています。 自死については,以前は否定的ではありましたが,闘病の中で,それは個人個人の自由でいいのではないかと思うようになりました。 自死していった方は,苦しい中,生きることに耐えられなかったのだろうなと,共感できる心持になっています。 病気をして,手厚く看病してくれる人がいる状況であれば,それはそれで,心配してくれる人のために生きる理由があっていいのですが,そうでない私は,一人で非常に苦しい,不安です。そんな私が,命尽きるまで闘病するかもしれないという選択をして,生きる理由はなんでしょうか。 誰も助けてくれる人もいない,ただ病気と闘って,死を待つだけかもしれない。 最後は,一人,孤独死を迎えるのかもしれないと思うと,寂しく,不安です。 そういった中で,このサイトに行き当たりました。 取り留めない文章になりました。 回答をいただければ幸いです。

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死んではいけない理由を教えてください

駄文につき失礼致します。 私は大学生です。 様々なストレスが重なりうつ病を発症しました。目下治療中です。 薬を飲み始めてからは落ち着きましたが、昔は希死念慮がよくありました。漠然と死んでしまいたいと思うことがよくありました。 投薬による治療や、様々な死生観等に関する書籍を読むうちに次のような価値観が形成されました。 死んでしまっては選択肢がなくなる。 生きているうちは選択肢が無数にある。 生きる事に行き詰まって選択肢がなくなってしまったと思ったら、死ぬことを考えよう。 これは今私が生きている理由の一つですが、この考えは一見生きることに前向きなようで死ぬことを否定していないのです。 言い換えれば、いつでも死ねると言う風にも捉えられます。 私は今のところ死ぬことは勿体無いと考え自殺を踏みとどまっていますが、自殺を否定する理由は未だに見つけられていません。 生きている限りいつかは死が訪れるものであり、やがては受け入れなくてはいけないものだと考えていますが、自ら死に近づく行為はいけない事なのでしょうか? 確かに、人が皆自殺を礼讃するようになれば人間社会は成り立たなくなってしまいます。 しかしながら生きることが権利ならば死ぬこともまた同様なのではないかとも考えてしまいます。 どなたかお力添え頂ければ幸いです。

有り難し有り難し 14
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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ