友人の優しさにためらいます
その友人はゲーム友達です。とても優しく人に寄り添いたいと口にし、実行できる人で、尊敬も混じってとにかく大好きな人でした。
そんな人なので、周囲からの信任も篤く、ゲーム内でも特別な役割を受け持ちました。
私も友人のようになりたいと人柄を学んだり、同じく特別な役割をいただけるよう全力をつくしました。
ゲームの運営は秘密裏にこの特別な役割の持ち主達に非公開の情報を伝え、特別な役割を更に優位に立たせることをしているようでした。ゲームを円滑にすすめ、特別な役割に憧れた人が熱心になることでお金を得るためでしょうか。
私は1年ほどこのゲームに全力を費やし、自分の楽しみはさておき、成果に求めましたが、特に成績は残せず、最後にそうした行為があったことがわかりショックを受けました(医療機関にお世話にもなりました)。
楽しむためのゲームで苦しんでしまうなんて悲しいことです。
もう気楽に自分のやりたいようにしようと考えました時、その友人からまた一緒に遊ぼうと声をかけられました。
彼女は私が苦悩していることに悲しみ、寄り添いたいと言ってくれました。今度は一緒に楽しもうと。
ですが、友人が私に寄り添って楽しめるのか。楽しくなくても連れ添おうとするのは私が経験した苦痛に似ており、友人にしてほしくありません。
同時にショックが胸に刻まれたことが、ちょっとしたことで湧き上がり、私の中で嫉妬と痛みが溢れます。
同時に友人の人柄の良さと心遣いは有り難くもあり、暗い気持ちと嬉しい気持ちが同時に起こって、自分でも整理がつきません。
友人の過去を問わず、「今」の気持ちを有り難く受け取り、前をむく努力、優しくその人に報いるようにしたいのですが、そうできない自分の傷も深く、時折涙が溢れます。
私はどのようにすればよいのでしょうか。
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ゲームを介さない付き合いはできないでしょうか?
そのゲーム、どんなものか…コントラクトブリッジのようなアナログなものか、それとも胴元のいるデジタルなゲームなのでしょうか。
文面からするとデジタルなようですね。「運営」が絡んでいるというのは、要するにそれで儲けている人がいるということでしょうね。
であれば、「ゲームを通じた友人」を、「ゲームをきっかけに知り合った友人」にしていってはいかがでしょうか?胴元とかの思惑から離れて。失礼ながら、胴元がいる場というのはキャバクラみたいなもので、純粋な気持ちはむしり取られることがある、というのは忘れてはならないと思いますよ。
「ゲーム上ではなく、一人の人間として友達になりたい」。それを言い出すのは怖いでしょうか。