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自分が正しいかどうか判断ができません。

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有り難し有り難し 26

はじめまして。
はじめて質問させていただきます。

相談内容はタイトルの通り、
自分の意見が正しいのか、そうではないのかわからなくなってしまうことです。

たとえば、
人と意見が食い違った時、
自分の意見を大切にすることができず、自分が間違っているんだと思うことがよくあります。

その場で思っていることを言う時もあるのですが、あとからよく振り返ってみると、自分の至らなかった点、私が知らないであろう相手の気持ちや背景、理解してあげられない自分のせこさなどを考え、とことん自分のことが嫌になり、結局相手の意見を飲んだり、どうにかこじつけでも相手の意見を理解しようとしてしまいます。

ですが、友人に話してみると「いや、あなた(私)が怒って当然でしょ」と言われる時もあり(もちろん私サイドからの一方的な話だからと言うのもありますが)、そのように味方が一人でもできると、「やっぱそうだよね?」と自信が持てるのですが、情けないことに私一人だと判断ができません。

たぶん、このように思うようになったのは、数年前に大好きだった彼と上手くいかなくなってしまったあたりで、嫌われたくない、別れたくない一心でそうやって心を押し殺していた癖がついたのでは、と思うのですが、そればかりを言い訳にはできません。

私は私なりにできるだけ、相手の気持ちに寄り添うようにしているつもりなのですが、何かの拍子にその相手から「こんなこともしてくれないのか」「何でわかってくれないのか?」と言われると、私は私で努力してるつもりなのに、何がそんなにいけないんだろうと、悲しくなります。

そして、その度に、正当な理由と意見を持って、堂々と立ち向かいたいのですが、自分の意見が間違っているのでは、私の心が狭いだけなのでは、相手が傷ついたらどうしようという気持ちから結局黙りこんでしまいます。

どうしたら良いでしょうか。

いろんな質問があるなか、お忙しいとは思いますが、どなたかアドバイスを頂けると幸いです。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

「正しさ」は一つなのか

ご相談拝読しました。他者と関わるに当たり現実問題として避けられないものなので切実なお悩みであるとお聞かせいただきました。

他者との関係は「(話せば)わかりあえる」はずという前提があると苦しいかもしれません。「わかりあえない(こともある)」ものだという事実に立てたならば感じ方も変わるでしょうか。

他者に寄り添おうと努力することは人間としてとても大事で素敵なことですが、どこまでいってもそれは自分の想像の範囲内でしているという限界を超えられません。相手の気持ちは分からないからです。

ですから場合によっては一人よがりだったり、ありがた迷惑だったり、見当違いだったりもするものです。

そのような私たちのコミュニケーションにおいて「正しさ」というものは実は最優先事項ではないのだと思います。その「正しさ」もやはり「自分の思い」という限界を超えられないからです。

どんなに自分にとって正しくとも、それが相手にもそうだとは限りません。相手が死ぬほど拒否しているのに自分にとっては正しいからとそれを押し通したならばその正しさは独善的でしょう。

私たちにできることは「わかりあえない」あるいは「人それぞれ違う」という事実を認めつつ、それでも目の前の相手と関わるために最良の妥協点を相互協力のもと探るといったところでしょうか。

相手に全面的に従うのでもなく、自分を押し通すのでもなく、そうした極端を離れて調和を目指す。どうしても無理なら「あきらめる」や「割り切る」といった態度も肝要です。

時には相手を傷つけてしまうことだって避けられないでしょう。その時は謝るほかありません。それで相手が許してくれるとも限りませんが、結局はできることをやるしかないように思います。

全てを恐れて自分だけの世界に閉じこもることが何よりも苦しいです。傷つく勇気と、傷つける可能性のある自分への謙虚さをもって、それでも私は誰かと関わるという主体性があなたを救うのではないでしょうか。

だれも傷つけ得ない完璧な「正しさ」を人間は持てません。でもだからこそ一人では生きていけないのです。

こうすればいいという「正しさ」を提供してくれないモヤモヤする回答だと思いますが、そのモヤモヤが実は大事なのです。答えを出す力よりも問うていく力があなたを真に支えるのです。

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個別相談可能
はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生経験も仏法聴聞も、まだまだ未熟な私ではありますが、皆様のお悩みに対し真摯に向き合い、共に悩み共に考えたいと思います。 お話しする内容は「こたえ」ではありません。仏法を聞いてもお金が儲かるわけでも、人間関係に恵まれるわけでも、病気が治るわけでも、何ものにも左右されない心の持ち様が手に入るわけでもありません。 仏法の救いとは悩みが私の思い通りに解決することでなく、どんな悩みも私の現実として引き受けて、悩みながらも生きていけることだと私はいただいております。 悩みを救う(解決する)のではなく、悩む人を救う(悩む私という存在を引き受けていける)のです。 「こたえ」ではなく、「問い」を共有することで、悩み苦しみを引き受けて生きていける一助となれれば幸いです。 【回答について】 後から読み返し、誤字脱字に気づいた際は訂正を入れます。訂正ではなく、お礼コメントへの返信のため追記する場合はタイトルに〔追記あり〕と記載します。 なお、タイトルも本文も字数制限があるため際限なく追記できないこともご承知おきを。
基本的には平日13時~15時のみ対応可能です。お寺の行事、急な法務で対応できない場合もあります。

ご自分の思った意見を大事に表現されてはどうでしょうか

rss551さんは「自分の至らなかった点、私が知らないであろう相手の気持ちや背景、理解してあげられない自分のせこさなどを考え、とことん自分のことが嫌になる」とお書きですが、相手の内面を察すると簡単に言いますが、自分以外の人の気持ちを汲むことは出来ないと思います。十人十色というように、みんな違うことの方が普通で、考え方も違って当たり前です。同調するような周りと一緒の考えというのは、逆に危ないと思います。そこで、違いを埋めるのがコミュニケーション力です。して欲しいことは口に出さなくては他の人に分かりません。口で言わないで察して欲しいというのは、甘えではないでしょうか。こんなことを言うと言われたことしか出来ない人間でどうすると言われそうですが、気を回してやったことが裏目に出ることもあります。意思疎通しながら物事は進めるのが一番です。
「大好きだった彼と別れたくない一心でそうやって心を押し殺していた癖だ」ということですが、心を押し殺して辛くないですか。最も気楽に考えられたらいいのではないでしょうか。周りと違う考えでいいので、自分の考えを大事にされてはどうでしょうか。自分の考えを大事にそれを表現することで、ご自分も自信になると思います。例え間違っていたとしても、意見を述べることで、はっきりします。
rss551さんは発言することで、ご自分が傷つくことを恐れられているようにも思えます。努力されていても寄り添えなくて悲しくなられた経験から臆病になられているのかも知れませんが、生きている限り、真摯に人生を振り返れば、誰かに迷惑をかけて生き続けているのが人間です。失敗を恐れずに、ご自分の思った意見を大事に表現されてはどうでしょうか。

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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ