hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

過去に傷つけた人の心情が気になって仕方ありません

回答数回答 1
有り難し有り難し 76

過去人を傷つけてしまったことで悩んでいます。私は、現在高2です。中学二年生の冬、ある人を突然傷つけてしまいました。
僕はそのころ、人の悪口を面白がってメールで書いて本人に未送信するスリルを味わうという最低な行為を、一人でやっていました。そして、改心して全て消そうと思った瞬間、間違えて送信をしてしまいました。送った瞬間に、謝罪のメールを何件も入れ、電話もすぐかけて謝りました。その時は、こんな遊びをしてて間違えて送ったとは怖くて言えず、友達へ送ろうとした悪口を間違えて送ったんだと、芝居までしてしまいました。そのとき彼女は、別に気にしてないよという感じでした。しかし、もし私が知り合いに急に見た目の悪口を言われたらとふと思い、彼女の心の傷を感深く感じました。それから2年と少し経った最近、彼女を傷つけてしまったこと、芝居をしてまで真相を隠してきたことに、もう耐えきれなくなり、全てをメールで打ち明け、謝りました。誠心誠意謝りました。彼女は、「内容はあれだったけど、謝ってくれてありがとう、私も当時人に悪口言ってたし、私も悪いかな。気になさらないで」と返してくれました。
私は、彼女を傷つけようとして送ったわけではありません。ただ、あの最低な遊びだけは反省しています。ただ、当時の彼女の傷ついた気持ちを思い出すと、勉強も手に付かなくなるぐらい、苦しくなり、背筋が凍りつき、頭が真っ白になります。私は、彼女に決して善人として見られたいわけではありません。それはエゴであり、彼女の傷は癒えないものだから、当然私はそれを事実として受け止め、またこの事件から学んだことと彼女の気持ちを一生背負い続けるつもりです。
しかし、やはり傷つけようとして書いてないけれど、送ってしまったことにより彼女が傷ついたことを考えると、ずっと心が落ち込んで苦しいです。しかしこれ以上謝罪するのは彼女にとっても迷惑だし、言い訳のように捉えられるかもしれません。そこで質問です。
彼女の気持ちを思い出すだけで、私はもう幸せに生きる権利は無いとか、思ってしまい、苦しいです。私はこれからいったい、どう生きて行けばいいのですか?
本当に反省しております。ご回答よろしくお願いします。


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

悪口 陰口 愚痴文句 不平不満 は ガンの元

_(._.)_ゴロが良いので覚えて頂戴ね。
悪口って自分に還ってくるものなのね、絶対。
悪口の恐ろしさは十分に懲りたでしょう。
だからもうやめにしましょうね。
もう懲りた、もうこりた、「忘己利他」ってシャレがあってねぇ。
自分を愚かさを出すことを控えて、相手の為に尽くすということです。
それをしていけばあなたはきっと気持ちが明るくなって前向きに生きていけると思いますよ。
悪く言うのではなく、良い所を探してホメてあげたり、感謝するとあなたの心の毒素は消えていくでしょう。
人を傷つけたり、泣かせたり、嫌われたりしてうれしい人なんかいません。
その場はスッキリしても後アト絶対後悔します。
私も学生時代はイジメたり、イジメられたり、そりゃサイテーでしたよ(笑)。
トコトン、バカやらないと男子は気づかないもんですね。

悪口って、相手の否定です。自分も否定することです。
これからは、悪口の恐ろしさを人にも教えてあげるとイイと思いいますよ。
悪口いってる友達がいたら、これこれこういうことがあって、とても苦しかったんだ、だからやめたほうがイイよ、と。
科学的にも、悪口や愚痴や不平不満を言っている時の状態って、体の中に悪い物質が出てるのだそうです。よくないよね(´・ω・`)
もしまだ謝り足りないと思ったのなら最後にもう一度ちゃんと謝ってきたらいいと思います。
今後はあなたの生活の姿勢、態度が変わっていくことで信用を取り戻せると思います。
この事件をきっかけ、戒めとして、これからは相手が誰であっても尊重する、平等視する、良い所を探して評価してあげると良いと思います。

{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ