家庭にがんじがらめ
第二子を妊娠中の専業主婦です。
夫は優しいですし、経済的には恵まれている方かと思いますが、不満が心に渦巻いております。
第二子はいらない、育てられないと言ったのに笑顔で説得されて渋々ことに及び結果妊娠してしまったのです。
一回くらいなら仕方ないかと受け入れてしまった自分もバカでした。
夫は妊娠を喜び、ますます育児を手伝ってくれるようになりましたが、私は喜べません。
私はまた今後数年間、家庭に縛られ拘束され続け籠鳥として生きねばならないのでしょう。
私はからだが丈夫ではないため、できる仕事は限られています。そんな私を仕事から免除してくれたのに、どうしてこう不満なのか。
私の思考回路が悲観的で、また神経質なだけでしょうか。暗澹たる気持ちを抱えています。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
田有れば田を憂う
ご相談拝読しました。
まずはお子さんを授かられたという事でおめでとうございます。
出産というのは一人の人間がこの世に現れるという事なので、兎にも角にも一大事です。
そして死ぬというのは逆にこの世から一人の人間がいなくなるという事なのでこれまた一大事です。
そしてこれらは人間の力ではどうにもならない事で、全てご縁です。
命を自ら断つことは出来ますが、命を生み出すというのはやりたくて出来る事ではありません。
ちなみに我が家は子供が一人ですが二人目を望んでも授かれませんでした。だから二人目三人目と授かれる人を見ると羨ましくなる事があります。
しかし、そんな時この言葉を思い出します。
『田有れば田を憂う。田無ければ田を欲す』
これは無量寿経というお経の中に出てくる言葉です。
田んぼが小さければもっと広い田んぼが欲しいと思うし、あったらあったで彼方此方に手間が掛かるので心配のタネは尽きません。
これは家でも同じで、狭い家だと不満だけど、広すぎる家はお金がかかったり持て余したりして大変です。
私達は
『少なければもっと欲しがり、多ければこんなにいらない』
等とボヤき続けている間に歳を取ってしまいます。そしてハッと気がつくと、もうどうにもならない状態に。
これを「不急のこと」とお経の中では表現されています。
ですから大切なことは子供がどうとか家庭がどうとかではなく、「なぜ私は不満なのか」と向き合う事です。
そして不安や不満な時は自身のご両親の人生を、祖父母さんの人生を辿ってみてください。
ご家族の人生を辿ると思いがけない真実を知ることもあります。
私達は自分の人生と出会うことで大切なことに気がつかせて頂けます。
そして「あなたは私を縛った」と思われて生まれるお子さんはどう思うでしょうか。
二人目のお子さんが出来なかった時に得られるものは何でしょう。
それは消えない宝物でしょうか。
とても大変な事ですが自分と向き合うというのはとても大切な事です。
今はYouTubeでも沢山の仏教のお話が聞けます。お時間ある時にご視聴されてみてはいかがでしょうか。
質問者からのお礼
ご回答いただきありがとうございます。
心から感謝いたします。
なぜ不満なのかを考えたところ、「二人目は欲しくないと伝えた私の気持ちをないがしろにされた」ことが一番大きいと気づきました。
あのときは珍しく強引だったのです。
それでも受け入れてしまったのは自分なので、夫に罪はないのでしょう。
命の重み、生まれてくる子どもの気持ち、とても大事ですね。
ただ、私は傷つきました。言葉ではハッキリ拒否しました。蹴り飛ばさなかった私にも問題があるのでしょう。