無駄な怒りをやめたい。
先日、好きな人(以下、彼女)に彼氏(以下、彼)が出来ました。しかもその彼氏と言うのが私の友達でした。昨年から仲の良いグループで遊んでいた仲でした。その中で彼は私が彼女に対して好意を持っていることを知っていましたし、応援してくれていました。
しかし、今年度になって彼にも好意が出たらしく、焦って告白したそうです。
好意を持つことは素敵なことだと思いますし、全く悪いこととは思いません。
しかし、友達が好意を持っている人に対して、それが分かった上で付き合うという行為に至ろうと思うことに理解に苦しみます。
過去に囚われて生きることは無意味であることはわかっていますし、そういうことはしないようにしています。
が、しかしこちらがどれだけ苦しい思いをしているかも知らずに呑気にいて、目の前で所謂いちゃいちゃしているところを見せられると非常に腹が立ちます。
何回か話し合いもしました。が、全くと言って改善は見られないし、むしろ嫌みったらしくやってくるように感じます。
結局人間は「自分は自分、他人は他人」で自分のことを1番に考えることはわかっています。ですから、もう仕方ないというか、こういう人なんだなと割り切るようにしようと思い、口が悪くなりますが、アホは相手にしないようにしようと思います。が、そんなこと考えてる自分にも腹が立ったりします。
誰が悪いとか、こんなことするなとか、そんなことは思いませんが、
やはり責任感がないというか、自分で言ったことに対して責任を持たなさすぎる彼らに腹が立ってしまいます。
どうすればこんなに腹が立ったり考えたりしないようになるでしょうか。
仏教の教えも交えて教えていただければ幸いです。
まとまりがないですが、よろしくお願いいたします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
【退避】その場から退いて危険を免れること。
"いちゃいちゃしているところを見せられると非常に腹が立ちます"
見たくなければ、あなたがその場を離れればいい。
放っといてやりなさいよ。応援する気のないあなたがそこにいるほうが、彼らにとっては邪魔くさいのかもしれませんよ?
むしろ私なら、自分に気を使われているほうが悲しさが倍増して、いよいよみじめな気持ちになっちゃうと思うんですけどね。
【悪をこのまん人には慎みて遠ざかれ、近づくべからず】『末燈鈔』と浄土真宗の親鸞さんはおっしゃった。本当はこういう文脈でおっしゃったわけではないのですが、構造は同じだと思います。彼らを祝福する気のないあなたが、彼らのそばにいてもあなたの心が荒むだけ。それなら、やっぱりあなたはそこから遠ざかり、互いの精神衛生を保ったほうがよいのではないでしょうか?
"口が悪くなりますが、アホは相手にしないように"
ほら、すでの口が悪くなっている。ヤバイ ヤバイ
お坊さんとか関係なくお答え
ふつうにひどいですよねえ。
あなたの好意を知っている上なので、友達も悩んだのかもしれませんが、
きっとほんとはもともと友達じゃなかったのでしょう。
友達が好きな人に告白するなら、正々堂々、ごめん!応援できなくなった!
これからはライバルだわってあなたに言うべきだったと思います。
どんなふうに伝えたんですか?
伝えたのにあなたの前でイチャイチャとは、
友達とも思えません。
これからは本当の友達を作っていきましょうね。
仏教を交えて言えば、過去ではなくいまここから、ですね。
まだみなさんお若いので、これからも色々あると思いますが、
若さを楽しんでくださいね。
妄念はもとより凡夫の地体なり。妄念のほかに別に心はなきなり
「妄念はもとより凡夫の地体なり。妄念のほかに別に心はなきなり」という言葉を紹介させていただきます。これは源信僧都が作られたと伝えられている『横川法語』の中にある言葉です。
乱暴に意訳しますと「私たちは、迷い、執着、私たちの心は煩悩から離れることはありません。それが、私たちのありのままのすがただからです。この煩悩の心以外に別に清らかな心があると思ったら大きな誤りです」とでも、なるでしょうか。
仏教は、自分をごまかしたり、開き直ったり、自分を正当化するための教えではありません。
以前は、一緒に仲の良いグループで遊んでいた、大切な友だちだった存在を、私たちは条件が整えば、非常に腹が立ち、いやみったらしく見え、相手にしたくないアホにしてしまうのです。
自分で言ったことに責任を持たない、責任感を持たないのは一体誰でしょうか?
よく考えてみられると良いと思います。