成人式への恐怖
もうすぐやってくる成人式が恐ろしいです。大変な時期ではありますが、私の故郷では成人式が行われる予定になっており、小学校の元同級生からのLINE(メッセージアプリの一種)には、二次会も行う旨が記されていました。
元同級生たちは、現在の暗い状況下でも希望にあふれていました。彼らが久しぶりの再会を純粋に楽しみにしていることは、たとえ字面しか手がかりがなくとも容易に読み取ることができました。
一方で、私はそうではありませんでした。我ながら陰湿だと思いつつ、彼らのプロフィールのいくつかを覗き見してみると、そこには自然な笑顔を浮かべている彼らと、おそらくその友人であろう人々の写真がありました。
私は私と彼らの間に存在する、精神的、人間的な差を垣間見た気分になりました。
私は人付き合いの薄い人間です。友達と呼べるような人は一人もいません。これまでの学校生活でも、部活やサークルといった集団に属することなく、一人で完結する非生産的な趣味や娯楽ばかりに傾倒してきました。
そうやって受動的で怠惰な生活を送っていくうちに完成したのが、私という生きる力の弱い人間です。半ば引きこもりと化し、人とうまくやっていく能力もない上に、自発的に何かを行うことをひどく恐れる、生きた屍です。
そんな人物が成人式に行けばどうなるか。元同級生たちに会えばどうなるか。おそらく何も起きないでしょう。簡単な挨拶をして、そこで終わりです。そうして元同級生たちが談笑するさまを尻目に、孤独感と自責の念に苛まれるだけでしょう。ろくに喋れぬ私に気を遣ってくれる、素晴らしい人だっているかもしれません。言うほどのことは何もありません。
しかし、その時間が、たまらなく恐ろしいのです。
成人式には行かなければなりません。行かないとなれば両親は悲しむでしょうし、何分田舎のことですので、噂されれば肩身が狭くなります。
私はどのような心構えをしていけばよいのでしょうか。どうすれば彼らのあふれる生命力と、自身の空虚さに打ちのめされずに済むのでしょうか。
駄文に最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
迷いの心から、自立心の志を
拝読させていただきました。
自分自身への約束が強いかも知れないのではないでしょうか?
「○○は行かなければならない」
「これだけやらないといけない」
「ここまではしっかりケジメをつける」
こうでいないと、次に進む人生に自己に嘘を付いて、行くことに障碍が生じるかも。
成人式だからといって、無理に行く必要は決してありません。親が悲しむという思いやり優しさはとても良いことでありますが、先見の心で何か生じるのではないかという不安を抱えたまま行くことで、何もかもそういった疑いの目や心で物事を見てしまう傾向が強くなり、後々後悔の入り口を作るかもしれません。
しかし、現実は行ってみたら全然そうではなかった。自身が思っていることとは違い、同級生もそれぞれの社会への環境への入口でもあることから、責任感や社会人との付き合いなどで、各々が少なからず悩み事をもっている時期でもあります。
仏教では「莫妄想」といって、起きていないことを妄想するなという戒めの言葉的な意味があります。
現代ではネット社会、インターネット社会などが普及し過ぎていることから、様々な楽しみもあれば、不安との背中合わせでもあります。
「科学は進化したけども、心はついていっていない時代」とよく表されることが現在では多くなりました。
いわゆる情報社会であるからこそ、余計な観念が増幅してしまう恐れがあり、何が正しく何が不正解であるのかも分からない時代です。
苦しみは迷いから生じます。迷いを断つことで、苦しみから解放への入口となります。後悔先に立たずであり、これから社会の生活が圧倒的に長くなります。それぞれの社会(世界)で、また必ずしも人間関係が築かれていきます。
同級生とも会う機会もほとんど無くなっていくでしょう。同級生も結婚や仕事などそれぞれの道へと進んでいきます。
成人式だから参加するという意思を持つのではなく、成人になったという自覚をもって両親とお食事するだけでも全然いいと思います。
ちなみに私は成人式のときは、寝不足で寝過ぎてしまい、当日は起きたら成人式が終わってました。もう20年以上の前のことですが、、、成人式に誰々が参加していなかったなど、誰も覚えていません。数年経てば必ずといっていいほど。
合掌
質問者からのお礼
お礼のコメントを書くのが遅くなってしまい申し訳ありません。
成人式の日を実際に迎えてから書こうと思っておりました。
アドバイスを心に留め、実際に行ってみると案外気楽なものでした。迷える心を導いていただき、ありがとうございました。