人間は不完全で過ちを犯す生き物ですか?
私は大学生の時に、中絶経験があります。お互いの認識が甘かった事が原因です。とても悔やんでおり、当時の自分の浅はかさがずっと許せません。
学生の身分で避妊はきちんとしなければいけないのは、分かりきっていたはずなのに…。それなのに、当時それができませんでした。一生背負っていく事は、自業自得だと思っています。
2度と同じ過ちは繰り返さないようにと心に刻み、供養を続けながら数年後、当時の相手と結婚し、今は子供もいます。10年以上経ちますが、私も主人もあの時の赤ちゃんを忘れた事はありません。
ハスノハだけでも、私と似たような境遇の女性を多く見掛けます。それなのにお坊さん方は、温かく説いて下さいます。
それはいけない事、駄目な事だと分かりきっていても、私のような愚かな人間は罪を犯してしまう生き物なのでしょうか?仏様と赤ちゃんは、不完全で道を誤った私が立ち直って生きていく事を許してくださるのでしょうか?
くよくよしがちで、極度な心配性と不安性です。過去の嫌な思い出を、何かと結びつけてフラッシュバックしてしまう事が悩みです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
あなたを必ず救うと願うのが仏様
ご相談拝読しました。過去の経験の重さを受け止め続けていらっしゃるのですね。でも時々その重さにつぶされそうになってしまうのですね。
さて、
>人間は不完全で過ちを犯す生き物ですか?
とのこと。そのようにも言えるでしょうが、より仏教的には、人間は縁に条件づけられた存在であり、煩悩を抱える存在であると言えるでしょう。
そして赤ちゃんは許す許さないの以前に、そもそもあなたを責めたり怒ったりしているでしょうか?それは赤ちゃんがしていることではなく、自分で自分を責めたり許せないでいるということではないでしょうか。過去の重さを受け止めるということが、赤ちゃんから許されたいという風に、今の苦しみをある意味で赤ちゃんのせいの様にしてしまってはいないでしょうか。
不完全だからとか、愚かだからというよりは、その時その時の縁(環境・状況)に人間は規定されてしまいます。なぜこんなことをしてしまったのか?と後から責めてしまうこともありますが、その時はそうとしかできなかった縁の中にいたということです。
良いことをする、悪いことをしない、というのは小さな子供でもわかることですが、それを成し遂げるのはいい大人でも難しい…いや、できないのでしょう。なぜならば何が良いことで悪いことなのか、そもそもそれ自体が人間には完全にはわからないからです。煩悩によって自己中心的に考えてそれにとらわれてしまいますからね。
仏教というのは煩悩を断つ道が基本です。しかし煩悩を抱えたままでも必ず救うとおっしゃる阿弥陀仏という仏様もおられます。阿弥陀仏はどんな人間のあり方をも選ばず・嫌わず・見捨てずの精神で必ず救うと願いをかけてくださる存在です。
不完全で道を誤る人間でも救うのか、ではなく、そういう人間をこそ救うというのが阿弥陀仏なのです。
救うというのは、心を楽にしてくれるとか、悪い事を避けさせてくれるということではありません。
自分の煩悩の身の事実、そのゆえにしてしまう罪の重さ、そうした自分の姿を明らかに知らせ、いよいよ深く自分の課題として受け止めさせてくださるということです。
そういう意味では、赤ちゃんの存在というのはあなた自身の姿を知らせる仏様としてのはたらきをしているとも受け止められます。仏様としての赤ちゃんはあなたを許さない存在どころか、あなたをこそ救いたいと願う存在ではないでしょうか。
悪い行い4割、中性な行い5割、善い行い1割ぐらい
すずさま
完全な人間などおりません。
行いが全て善行などとてもあり得ません。
いれば、仏陀になっています(笑)
大抵、悪い行い4割、中性な行い5割、善い行い1割ぐらいですよ。いや、善い行い、1割以下がほとんどです。
拙生も善い行い1割もありませんよ。
そんなものです。
しかし、善き行いに取り組まなければ、善き結果へは向かっていきません。
できるだけ善い行いに努めていけるようにしていくことは必要となります。
その方法が仏教でもあります。
是非、ご供養と共に善き行いに努めていけるように仏教を修習していって頂けましたら有り難いことでございます。
川口英俊 合掌