法要や遺骨をお墓に入れるのは絶対必要?
先月、2カ月の娘を亡くしました。
これから先、49日などの法要をしようかどうか悩んでいます。親は「してあげなきゃ、〇〇が可哀想だ」と言っています。
もちろん毎日手を合わせることは欠かしていませんし、娘のことをいつも思い出しています。
主人も、「〇〇のこと、思い出して毎日手を合わせているから、別にお経を読んでもらったりとかする必要はないと思う。供養の形は色々あっていいと思う。」と言っています。
また、遺骨をお墓に入れることも躊躇しています。(幼くして亡くなったし墓に入れられるのはちょっと、、、と思いますし、正直ずっと一緒に居たいというのもあります。)
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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供養の場を通して死を受け止め、亡き人と出会い直す
ご相談拝読しました。愛するお子様のご命終に謹んでお悔やみ申し上げます。
まだまだ悲しみもとまどいも尽きないことと思います。その様な中で供養について考えなければいけないというのは負担になろうかとも思います。ですがとても大事なことなので出来る範囲で考えてみていただければ幸いです。
さて、あなたもご主人も親御さんも共通しているのは「何かしてあげたい」というお気持ちであると思いますが、その方法については考え方に違いが有るといったところでしょうか。
私は供養してあげなければお子様が可愛そうとは思いませんし、供養の形はそれぞれあってよろしいかと思います。
しかし、供養を仏事として勤めるにあたり、お経をいただくというのは欠かせないものであるとも思うのです。
なぜならば、お経は亡き人に読んであげるものではなく、亡き人がその命の終わりを縁として生きている方々に聞かせる機会を作ってくれたものであるからです。お経は呪文ではありません。お経には生きている人が抱える悩み苦しみの原因について目覚め、そしてそれを解決するための教えが説かれているのです。
お経…つまりは自分の外からの教えがない供養というのは自分の思いの範囲内におさまってしまうものです。もちろんそれが悪いというわけではありません。しかし、死というものは自分の思いだけで解決できるものではないと思うのです。
亡き人を生前同様に大事にしたいというのは素敵な事です。
ずっと一緒にいたい…何かしてあげたい…
それの何がいけないでしょうか。何もいけないことではありません。…でもそれだけで済むものでもないということはどこかでお感じのことと思います。
仏教は生死を超える教えです。生まれ変わり死に変わりする迷いを超えるものであり、生と死を分けて考えるとらわれを離れるものであり、生と死の意味を受け止めるはたらきのあるものです。
49日の法要でお悩みということはご葬儀は勤められた事と思います。僧侶からはそうした教えの話はなかったでしょうか。もしなければ是非尋ねてみていただきたいです。
納骨は必要であるとは言い切れませんが、そうした教えを聞く中でお骨という形あるものへのとらわれは薄らいでいくものと思います。お子様はこちらの思いを超えて、もっと広い世界からあなたにはたらきかける存在として見出されるという出会い直しがあると思うのです。
絶対ではない
法要もお墓も、絶対に必要なものではありません。
法要は、人が集まって儀式をすることと、お坊さんやお寺に布施して功徳を積むことの意義があります。
お骨は、髪の毛や爪と同じ肉体の一部にすぎません。
日本の家庭では、大量のお骨をいつまでも保管しておくのは現実的でない気はしますが、気がすむまで傍に置いておくのは悪いことではありません。
ご冥福をお祈り申し上げます。
質問者からのお礼
ありがとうございました。供養の形はいろいろあって良いんだと教えていただき、気持ちが楽になりました。
毎日手を合わせること、写真に話しかけることはこれからもずっと続けていこうと思います。
私たち家族が落ち着いてきたら、遺骨をお墓に入れようかなと考えています。(もしかしたら、お墓でなく別なところになるかもしれませんが、、、)