「死にたい」の定義
少年時代の友人が、「死ぬってどういう事とか考える?」と聞いてきました。
それに対して、私はドラマで聞いた言葉として、「死ぬのは老人の役目。」と答えた事がありました。
それから何年も何年も立って。
「死にたいなんて言う意味がわからない。」と言う人もいれば
「死にたい。」という人も。
たくさんの理由があり、死を言葉にせず「消えてしまいたい。」と言った人。
そして何も語らず死ぬ人。何も語らず死にはせず、生きてはいる人。何も選ばない人。
たくさんの方たちがあり、しかし、生きづらいからこそ、「死にたい。」「消えたい。」「選ばない。」に「生きたい。」が隠れているような気がします。
それぞれの方の境遇を、何とできるはずもなく、話ができても、心うちの全てを理解できるはずもない。
私もこういった方たちと同じ輪にいつ入るとも知れませんし、さほど距離もないようにも感じます。
こんな時、一体何を考え、何を成すすべきか、また為さざるべきか。
俯瞰できているような、そこにそのまま立っているような。
漠然とした私の思考に、幾つかの道筋を立てて頂きたいのです。お解り戴けるでしょうか。
無理してでも一歩先んじようとする。 失敗にとらわれそれが忘れられない. より良くしようと力尽きる。他人にも自分にも理想が高い。 よく不安にかられています。うまく休めない.
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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人と関わる
sasさま
はじめまして、なごみ庵の浦上哲也と申します。
なにか哲学的な問いを頂いたように思います。
まず「死ぬ」についても、人によって色々な応えがでそうですね。
私であれば「誕生と表裏一体のもの」と言うでしょうか。
そして今は「死にたい」という言葉について深く考えていらっしゃるのですね。
生きづらいと言われる今の社会で、それを口にする人もしない人も、根底には「生きたい」が隠れているのではないか、とのこと。
私も全く同感です。
私たちが頭で考える以上に、この世に生まれて来た生命の本能として「生きたい」という思いはあるのだと思います。もちろん自ら命を終える方も少なくありませんが、その方たちも抱えていた問題が全て消え去ったら「死にたい」とは思ったり実行したりはしないのではないでしょうか。
sasさんは、ご自身が「死にたい」という思いを抱えてしまわないか、それを実行してしまうんじゃないかと不安を抱えていらっしゃるのでしょうか。そのご不安も、分かるような気がいたします。
そんな時にどうしたらいいのか。
私は「人と関わること」が大切だと思います。自死は、様々な悩み苦しみが積み重なった上に「孤立」が加わることで引き起こされる場合があります。
逆に言えば「孤立」せず、悩みや苦しみを打ち明けられる相手がいれば、その危険性は下がるということではないかと思います。
弱音を吐かずにグッと我慢する…ともすると日本人は美徳ととらえる部分です。ですがそれは良いことばかりではない、時には周囲に弱音やグチをこぼしてもいいのだ。そうやってハードルを下げておくことが、大切なのではないかと思います。
sasさんのお聞きなりたいことに、ピタリと応えられているかどうか心配ですが、いかがでしょうか。
話を聞くだけでもいいのです
私もこのハスノハによく回答してますが、とても質問者を導く事が出来るような回答はできません。
しかし、私は話を聞くだけでもいいと思っています。
寄り添うというか、共感するというか、そんな感じです。
あなたもそのようなスタンスで彼らに接してあげてはどうでしょうか。
質問者からのお礼
仕事にかまけて、お礼が遅くなり申し訳ございません。
浦上哲也さま
十分すぎるお答えをいただきありがとうございます。
聖章さま
お礼が遅くなりました。
私は人の境遇や話と、自分について境界線が曖昧と言いますか、影響されやすい所があり、何かできること、できたことはないかとエゴが現れます。やはり、自分が主体なのでしょう。
話を聞くだけ。共感を心がけてまいります。