思い通りに何もならないのになぜ生きるのか
質問させて下さい。
私は39歳の男です。
今までの人生を送ってくる中で、何も希望通りになりませんでした。
今も仕事もうまくいかず結婚もできないです。趣味もないです。
今まで思い通りにいかなかったら、「きっと次はうまくいく。きっと来年はうまくいってる。きっと10年後はうまくいってる」と、今から逃げることで、精神を保ってきましたが、この年になると、「このまま何もうまくいかない人生なんだろう」と感じるようになりました。
そう思うと、生きていることも、生きていくこともとてもつまらなく、夢も希望もなくなりました。自殺を考えるとまではないですが、夢も希望もないのに生き続けなければいけないことが億劫で辛いです。
「人生なんてつまらないしうまいかないもの」という考えもできるのかもしれませんが、それこそそうならば、なぜ生きていかなければいけないのかわからないです。
私はどうやって、そしてどう考えて生きていくことで、少しは生きることが楽しくなるのでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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思い通りにならないところから始まる
こんにちは、初めまして。
お話の前提として、他の方にもご案内している仏教の内容についてご案内します。
仏教では煩悩という言葉を用いて、人の心のありようを表現します。煩悩とは自己中心の心です。自分の思い通りになるもの、心地の良いものは貪(むさぼ)って、必要以上に欲する。これを貪欲(とんよく)と言います。思い通りにならないものは、怒って遠ざけたり糾弾する。これを瞋恚(しんに)といいます。
そう、貪欲も瞋恚も自己中心を判断の基準としています。その勝手な判断基準に気がついていないことを、愚痴といいます。痴とは、知っているわかっているつもりということが、すでに病に侵されているという字です。それがイコール愚かさということでもあるという意味です。
貪欲、瞋恚、愚痴を三毒と言って、煩悩の中心と私は教えられました。
「思い通りに何もならない」とあなたは嘆いています。
具体的に思い通りになることの事例をあなたは挙げていますね。
「仕事もうまくいかず結婚もできないです。趣味もないです」ということは、仕事が順調にいき、結婚もして、趣味もある、それが「うまくいく」の内容です。
まず、「趣味」が無いのはあなたが持とうとしていないからでしょう。誰が止めるわけでもない、「思い通り」にしようと思えば今日にも出来ることではないですか。とりあえず、なにかやってみてそれから判断する。食わず嫌いになっていませんか。これは、あなたの積極性の問題です。
次に「結婚」「仕事」、これが上手くいかないのは自分一人での完結が出来ず、相手方が居るからです。 換言するならば、互いに煩悩を持っている者同士が人の数だけ「思い通り」にしようとして同居しているのが社会であり、あなただけの「思い通り」にならないことは当然のことです。あなたは、その社会の現実の有様を分かる、というスタートラインに立ったに過ぎません。
だから、「夢も希望もない」と諦めるのは早すぎです。
あなたの中では、これからが人生のスタートなのですから。
自分と人との煩悩の隙間を縫って、「夢も希望」を少しでも叶えようという行動、心持ちを積極的に実現していってください。
そして、自分の考え方自体が、三毒の煩悩のように自分を絶対視し、自己中心で物事を見ていくという硬直した考え方になっていないかを省みつつ、柔軟な心に成ることを心がけてはどうでしょうか。