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仏さまなどへのおねがいについて

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有り難し有り難し 26

先日プライベートでたびたび心が乱れたことがきっかけで、ご縁があり禅宗(臨済宗)に関心を抱くようになりました。
説法を拝聴したり書籍を読んだりしていますが、そこで疑問を抱いたのは、お寺などでお願い事をしても良いのか、ということです。
仏教においては求不得苦という苦しみがありますが、何かを熱心に求めたり望んだりし、それが叶うように願うことは、お釈迦様の考えに反してはいないでしょうか?

以前、お寺でお願いごとをしたときに、疑問を抱きました。
回答よろしくお願い申し上げます。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

願い事

伊信さま

願い事は構いませんが、できれば世俗的、利己的な幸せ等ではなく、仏教の場合では、利他的なもの、全ての者が苦しみから逃れられるためになることを願うのが大切なことになります。

簡単には、自分の幸せとかではなく、全ての者の幸せを願うということですが、最初からそんなできる者もおりません。そこで、自分の願い事と共に、他の者の願い事も同時に願うと良いでしょう。

どういうことかと申せば、例えば、病気になってしまったとしましょう。そこで、自分の病気が治ることを願うと共に、同じように病気になってしんどい思いをしている者たちの病気が治ることも願うという感じであります。

禅語における「同事」ということであります。自分が自分の為に願うことは、人もそう同じように願うであろうということであります。ですから、自分だけでなく他の者の幸せも願うということです。

「求不得苦」は、本来、実体の無い「空」なるものを実体が有るとして求めてしまうから得られないという苦しみとなります。

もちろん、何も無いというわけではありません。モノ・コト、願い事も「縁起」として成り立っているものであります。

簡単には、因縁(原因と条件)で成り立っているということになります。

願い事も、良い因縁が調えば、良い結果になるというもの。

願い事において、良い結果へ向けた良い因縁の一つして、仏教では「同事」も加えるという感じであります。

ちなみに仏教における代表的な願い事(誓願)は禅宗でもよく唱えます下記であります。

衆生無辺誓願度
煩悩無尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

簡単には、全ての衆生を救えますように、全ての煩悩を断ち切れますように、全ての仏法を学べますように、最上の悟りが得られますように、となります。

川口英俊 合掌

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有り難し
おきもち

Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
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求不得苦と願いは別のカテゴリー

ですので、とりあえず分けて考えましょう。
 求不得苦は、生老病死の四苦と怨憎会苦、愛別離苦、求不得苦、五取蘊苦(五蘊に執着することが苦。五蘊が盛んなことが苦という五蘊盛苦は少し変です)を加えた八苦の一つで、物事の道理・真理として、「求めても得られないから苦」と言われたものです。たまたま得られないものがあるという意味ではなく諸行無常ということで、瞬間ごとに変化生滅し続けるので、何物も、得られるものではないということです。それに執着するので苦です。
 願いは、やっていい願いとやらないほうがいい願いがあります。世俗と仏道で分けるものというよりは、私利私欲か慈悲喜捨の気持ちかという違いです。
 慈悲喜捨の四無量心は、慈しみ、悲しみがなくなればいいと思う悲、成功を願い喜ぶ喜、平安(捨)の心です。これらのどれかを自分に対して他者に対して一切衆生に対して無限大にまで広げようとする心です。
 具体的な願いは、自分のことでも他者のことでも、「あいつが失敗すればいいのに」などの願いはまずくて、「私(あの人)の就活が成功しますように」などと願うのはOKです。心清らかに頑張ればうまくいくことが多く、よこしまな心ではなかなかうまくいかないことが多い、という程度のものです。
 よこしまな気持ちではない願いになるためには、具体的なことは現場で頑張って、それを願うよりも、願うときは抽象的に、慈悲喜捨の心を、願うというより自分の心に言い聞かせて、それを仏様の前でも発表するくらいの気持ちでいるといいと思います。

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有り難し
おきもち

初期仏教というか仏教本来の教えを学びつつ、その在家信者のあり方から見た日本...
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「仏像・仏様・阿弥陀・観音」問答一覧

神様も仏様も、必ずしも信じられない

以前「何を信じて生きていけばいいかわからない」ということで投稿させていただき、ご回答もいただいたのですが、やや気になる点があり追加で質問させていただきたく。 自分としては誠実にあろうと生きたつもりでした。 でも、家族間でも、仕事でも、あったことをなかったことにされてみたり、なかったことをあったかのようにされてみたりで責められ、うつ病にもなり、とうとうここ1年半くらいは引きこもりや寝たきりに近い状態になってしまいました。 物の善悪も、何を信じて生きていけばいいかもわからなくなりました。 それでも回答をいただき、自分を大切にして、やはり今までの自分を信じて誠実に生きていく方が良い方向へ向かえるだろうと思えてきました。 そうする中で、もう一回本気で取り組める仕事にも出会いたいし、楽しい趣味も見つけたいし、心穏やかに落ち着いて生きていきたいとも考えています。 ただ、「神様や仏様は見ている」という言葉が回答の中にあり、少し暗い気持ちも残ってしまいました。 神様や仏様がいるのなら、どうしてここまで至る前・・・あの時に助けてくださらなかったのか。あの時、あのひどい扱いをしてきた者たちに報いを与えて下さらなかったのか。もし私が間違っているというのなら、こうなるまでにそれを教えて下さらなかったのか。何ならば、今の私を救ってくださらないのか。何が足りないというのか。 そんな汚い感情を払拭することが出来ません。「神様仏様はそういう都合のいいものではない」、もしかすると「私が以前の何かの報いを受けているだけだ」、と言われてしまうかもしれませんが・・・。 そう考えると、 『本当に今まで通り真面目に誠実に生きる方向で大丈夫なのか?』 『今までの道徳をすべて捨て去るようなこともしなくていいのか?』 『それで「誰かに都合のいい人間」でなく、自分が良い人間となり、よき人生を送れるのか?』 汚い感情と一緒に、まだそういう迷いも多少残っています。 「よき人生を送れるかはわからないけど、無理に全部変えないで、今までのものをアップデートする形で十分じゃないかな」とは思うのですが。 神様や仏様に求めすぎるような汚い思いや、そもそも神様や仏様といった存在にどう向かいあうべきなのか。そして落ち着いた心で生きるためのアドバイスをいただけますと幸いです。

有り難し有り難し 6
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薬師観音様にご挨拶した時のことについて

#お参り#仏像・仏様・阿弥陀・観音 初めて相談させて頂きます。 ありがとうございます。 観音様にご挨拶した時の不思議な体験について、何か気づきを得させて頂ければと思い投稿させていただきます。 よろしくお願いいたします。 先日、お客さんから、川見四季桜が綺麗だったよ、栗きんとんが美味しいよと教えて頂き、天気が良い日に母と出かけました。 可愛らしい桜と、綺麗に赤く染った紅葉と、綺麗な和紙の作品と色々見て、有難く大満足な1日でした。 桜と紅葉を楽しんでいたところ、川見薬師寺に続く階段を見かけて、ご挨拶しようと、急な階段でしたので慎重に登って行きました。 やっとの事で登りきると、正面少し奥に、薬師観音像が見えました。 その時、観音様は私から見て右真横を向いていましたが、一瞬で正面を向かれ、目が合いました。 明らかに目の前で起きた事への理解が追いつかず、何か見てはいけないものを見てしまったのではないかと暫く見つめ合ったまま固まってしまいました。 母に促され、観音様の目の前まで来て、先程のことは一旦離れて、感謝とご挨拶をしました。 先程感じた強い違和感は無いものの、やはり目が合い、微笑んでいるように見えました。 ふと、右真横の目線の先が気になり、確認しに行くと、お寺で飼われている、老犬がいました。 わんちゃんにも挨拶したあと、少し下った先にあるお清めの水が湧き出ている場所に行き、そちらの観音様にご挨拶した際も、やはり目が合い微笑んでいる感じがあり、また呼吸して生きている様に見えました。 その日は1日とても楽しい体験をさせて頂き、ありがとうの気持ちでいっぱいでした。 加えて、人生で初めての体験、感覚ばかりでしたので、不思議に思っております。 拙い文で申し訳ありません。 改めて、よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 6
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観音様へのお願い事について

とある観音様が祀られているお寺にお参りに行った際の事ですが。 初めて訪れたお寺でした。 ウロウロしていると案内して下さる方が出てきて、一通り大まかに説明して下さって、そしてお参りする際に、 「~いくらでもお願い事して大丈夫ですよ~」 と、確か言った気がしました。 一瞬「聞き間違えたかな?…」と思ったのですが…。 観音様のご利益を検索すると、 「…あらゆる願い事を叶える、救いの手を差し伸べる、云々…」らしく載っているのを散見できます。 ですが、参拝者がお参りする際、お賽銭(お布施)って、5円、10円、100円…とか小銭をする場合が凡そ大抵だと思います。 知識がある人なら封筒包で千円単位を包む事はあると思いますが、少数かと思います。 ※ちなみに、神社へのお参りの場合、願い事の規模の大小に依ってそれなりの金額をお賽銭すべきであろぅ、といぅ意見/考え方を聞いた事はあります。 いくらでもお願い事して大丈夫…とは言え、小銭程度で5個も10個ものお願い事するって対価に合わないんじゃ…と想像したのですが、 「Q:そもそも観音様ってお賽銭の額が小銭だから云々…に関わらず、人々の願い事を個数に拘らずに聞いてくださる仏様なのだろうか?という素朴な疑問です」 まぁ、他の仏様、如来/菩薩/明王様…の場合はどうなのか、も詳しく存じ上げていませんが。

有り難し有り難し 15
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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ