仏さまなどへのおねがいについて
先日プライベートでたびたび心が乱れたことがきっかけで、ご縁があり禅宗(臨済宗)に関心を抱くようになりました。
説法を拝聴したり書籍を読んだりしていますが、そこで疑問を抱いたのは、お寺などでお願い事をしても良いのか、ということです。
仏教においては求不得苦という苦しみがありますが、何かを熱心に求めたり望んだりし、それが叶うように願うことは、お釈迦様の考えに反してはいないでしょうか?
以前、お寺でお願いごとをしたときに、疑問を抱きました。
回答よろしくお願い申し上げます。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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願い事
伊信さま
願い事は構いませんが、できれば世俗的、利己的な幸せ等ではなく、仏教の場合では、利他的なもの、全ての者が苦しみから逃れられるためになることを願うのが大切なことになります。
簡単には、自分の幸せとかではなく、全ての者の幸せを願うということですが、最初からそんなできる者もおりません。そこで、自分の願い事と共に、他の者の願い事も同時に願うと良いでしょう。
どういうことかと申せば、例えば、病気になってしまったとしましょう。そこで、自分の病気が治ることを願うと共に、同じように病気になってしんどい思いをしている者たちの病気が治ることも願うという感じであります。
禅語における「同事」ということであります。自分が自分の為に願うことは、人もそう同じように願うであろうということであります。ですから、自分だけでなく他の者の幸せも願うということです。
「求不得苦」は、本来、実体の無い「空」なるものを実体が有るとして求めてしまうから得られないという苦しみとなります。
もちろん、何も無いというわけではありません。モノ・コト、願い事も「縁起」として成り立っているものであります。
簡単には、因縁(原因と条件)で成り立っているということになります。
願い事も、良い因縁が調えば、良い結果になるというもの。
願い事において、良い結果へ向けた良い因縁の一つして、仏教では「同事」も加えるという感じであります。
ちなみに仏教における代表的な願い事(誓願)は禅宗でもよく唱えます下記であります。
衆生無辺誓願度
煩悩無尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成
簡単には、全ての衆生を救えますように、全ての煩悩を断ち切れますように、全ての仏法を学べますように、最上の悟りが得られますように、となります。
川口英俊 合掌
求不得苦と願いは別のカテゴリー
ですので、とりあえず分けて考えましょう。
求不得苦は、生老病死の四苦と怨憎会苦、愛別離苦、求不得苦、五取蘊苦(五蘊に執着することが苦。五蘊が盛んなことが苦という五蘊盛苦は少し変です)を加えた八苦の一つで、物事の道理・真理として、「求めても得られないから苦」と言われたものです。たまたま得られないものがあるという意味ではなく諸行無常ということで、瞬間ごとに変化生滅し続けるので、何物も、得られるものではないということです。それに執着するので苦です。
願いは、やっていい願いとやらないほうがいい願いがあります。世俗と仏道で分けるものというよりは、私利私欲か慈悲喜捨の気持ちかという違いです。
慈悲喜捨の四無量心は、慈しみ、悲しみがなくなればいいと思う悲、成功を願い喜ぶ喜、平安(捨)の心です。これらのどれかを自分に対して他者に対して一切衆生に対して無限大にまで広げようとする心です。
具体的な願いは、自分のことでも他者のことでも、「あいつが失敗すればいいのに」などの願いはまずくて、「私(あの人)の就活が成功しますように」などと願うのはOKです。心清らかに頑張ればうまくいくことが多く、よこしまな心ではなかなかうまくいかないことが多い、という程度のものです。
よこしまな気持ちではない願いになるためには、具体的なことは現場で頑張って、それを願うよりも、願うときは抽象的に、慈悲喜捨の心を、願うというより自分の心に言い聞かせて、それを仏様の前でも発表するくらいの気持ちでいるといいと思います。