輪廻とは
飲料水のCMであなたの身体はあなたの食べた物で出来ていると言うのがありました。
お寺さんにこれって輪廻ですよねって伺ったらそこに魂が無いので違いますと言われました。
魂は必要でしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
魂
まず「輪廻」というのは生まれ変わるということです。
食べ物を食べ、それが体の一部になる。
確かに一見、細胞や便の違うものになるので、
「輪廻」と言いたくなるお気持ちもわかりますが、
それは「食物連鎖」といいます。
お寺様が「そこに魂が無いので違います。」
と言われたとのこと、私もそう思います。
仏教において、伝統的に輪廻が教義の前提となっております。
輪廻を苦しみと捉え、輪廻から解脱することを目的としています。
生まれ変わる…
さて、何が生まれ変わると思いますか?
魂でないとしたら、何が輪廻の苦しみに会うのでしょうか?
魂でないとしたら、「我」でしょうか?
私は「魂」が生まれ変わると思っていますよ。
「我」というのは、字の通り「われ自身」のことです。
「私自身」が永遠と認識したり、
あらゆるものに「私」というものの存在や固執を認識する事をいいます。
従って、それはそのものの魂の事ではないのです。
簡単に言えば、「我」とは「自分やものに対しての執着」であって、
「魂」とは「命そのもの」とでも言えばよくわかるでしょうか。
以上です。
ここからは余談になります。
しかし、お釈迦様は、
色・受・想・行・識(肉体、感覚、感情、意志、意識)
で捉えることのできない、形而上のものには、沈黙されています。
経験・観察できない世界(形而上学の世界)に関しては、お釈迦様は沈黙し、経験・観察できる世界においては無我を主張した、ということです。
なぜ沈黙されたのか、それは経験・観察できない世界は修行の目的の役に立たないからです。
お釈迦様が沈黙し答えることを拒否した質問のすべては、
世界の始まりとか、死後の世界に人の生が残るのかという、
経験・観察できない世界(形而上学の世界)に関する質問であり、
仏典に現れるすべての「無我(非我)」の主張は、
例外なく、「色・受・想・行・識」などの、経験・観察できるものに関する主張です。
ということで、
永遠の魂を教える宗教は、もちろん、もしかしたら真理なのかもしれませんが、それは仏教ではないのかもしれません。
諸説あります。ご了承ください。
参考になるかもしれない教え
お釈迦様「毒矢のたとえ」、「ヴァチャとの対話」
弘法大師空海の『金莊の不異』
亮英合掌
小難しいかもしれませんが、あえて仏教用語の定義を
「輪廻(りんねsaṃsāra)」という言葉は、「有情(うじょうsatta)」が生死を繰り返すこと、転生することを言います。
有情とは心を有するもの、生き物を指します。物質は有情ではありません。
私たちの体を構成する物質・要素を「色(しきrūpa)」といいます。
色が生じる条件は4つあります。業・心・時節・食 です。
このご質問の場合の「食べたもので私たちの体ができている」というのは、そのうちの「食生色āhāraja rūpa」に当たります。「この食という原因によって、この色が生じた」という現象ですので、やはり輪廻という表現は適切ではないです。
でも、ご質問者さまのおっしゃりたいことはよく解りました。
原因があって結果がある、私たちの知らないところで回りまわっている、本当に不思議で壮大なことだと思います。
それが輪廻するのです
必要というより、それが輪廻するのです。
呼び名はいろいろありますね。
魂、霊、精霊、念、心、などなど。
それが単なる脳細胞でしかないのか、あるいは何か宿る物があるのか、凡夫の私には見えないし、分かりません。
ただ、その分からない何かを、例えば魂と名付ける事で、イメージ的に理解し易くなり、私達が様々な苦しみや悲しみ、迷いから救われるという事が事実あるのです。
しかし、考え方は人それぞれなので、あなたはあなたの納得する考え方を大切にしてもいいと思いますよ。
あなたが食した命があなたの中で生きている、輪廻ではありませんが、そう考えるのは間違いではありません。
質問者からのお礼
お答え有難うございます。なかなか全てを理解できてはいませんが、私が死んで腐り分解され土になりそこから草が生えその草を動物が食べ心を持った子を産む。一度断ち切られた心がよみがえる、でもそれは私ではありません。仏陀は輪廻に魂をみたのでしょうか。