こんな私でも供養できるでしょうか
以前質問させていただいた者です。
こどもを死産してもうすぐ一年になります。
その子のお墓や仏壇ができ、一周忌の法要もお願いしています。その際にお墓への納骨もさせていただく予定です。
ですが、私自身、未だに気持ちの整理がつけられず、お墓や御仏壇のことを考えると気が遠くなり、辛くなってしまいます。辛さというのは、こどもが亡くなった悲しさ、あの時私がもっと早く病院に行っていたら亡くなることはなかったのではないかという後悔、生きて産んであげられなかった私自身を責める気持ちです。
夫は、私の気持ちを聞いてくれ、お墓も仏壇も作らない方がいいのではと気遣ってもくれましたが、夫自身は、お墓や御仏壇をそろえて手を合わせることが供養になるとの想いがあり、準備をすすめてくれました。
これまで、仮の御仏壇に毎日手を合わせてきましたが、想うのは「ごめんね」と「また会いたい、また抱っこしたい」ばかりです。悔やんでも自分を責めても、亡くなった命はもどらないし、供養にならないと思いながらも、一年経ってもそんな自分を変えられないでいます。
一周忌は来週ですが、法要の間もお墓や御仏壇から目をそらしてしまいそうで、涙が出て動けなくなりそうで、きちんとして居られる自信がありません。
供養の仕方がわかりません。私はどうしたら供養をしてあげられるでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
一周忌と供養の意味
おはようございます。
質問拝見しました。
供養できてないこと、ないですよ。
この一年、満点とは言わないまでも、ちゃんと合格点レベルの供養はできてますよ。
法事の立ち会いだけでなく、日々の合掌も大切な供養ですよ。
とはいえ、ご自身の償いの感情をすぐに消すことが難しいことを私は知ってます。
今の深い悲しみと自責の状況でうまく伝わるか、自信がない部分もありますが、
法事は裁判の場ではありません。
なな様が裁かれる場でも責められる場でもありません。
法事の本来の意味を突き詰めていくと、故人を縁とした遺族の悲しみや、不安、畏れを鎮め供養する場であります。
仏弟子となり菩薩の道を歩むお子さまが、遺族の悲しみや畏れを救う経験を重ねる場ともいえます。
親が子をなんとか成仏させようでなく、子を通じて親が成長する場でもあります。
なかなかそのような心境になりにくいとも思いますが、仏壇の前は安心して泣いていい場でもありますよ。
こども如来視点で考えてください。
『母ちゃんの心の傷を拡げる場』ではなく『母ちゃん悲しませてゴメンね。私も仏弟子になったからには何年かかっても母ちゃんの傷を癒す一人前の如来になるから、今は泣いてていいけど、ちゃんと生きて』という場でもあります。
親子が報われ、悲しみを乗り越えてほしいと願うあまり、キツイいい方になり、ごめんなさい。
供養の捉え方や意味は、法事に来るお坊さんや、他の回答僧と視点が違うかもしれません。
一般的な模範回答ではないかもしれないことは先に謝ります。
その子はいつもあなたを見守っています
拝読させて頂きました。
大切なお子さんがお亡くなりになり一年がたとうとしているのですね、あなたはその子を心から愛しているでしょうからその悲しみやさみしさや後悔がつのるのも無理からぬことかと思います。あなたのお気持ちを心からお察しします。
その子が仏様に導かれて一切の迷いや苦しみからも救われて心安らかになります様にと仏様にお願いしご供養申し上げます。至心合掌 南無阿弥陀仏なむあみだぶつ
その子は必ず仏様に導かれ親しい方々やご先祖様方がその子を優しく迎えて下さいます。そして仏様のもとにて皆さんと一緒に心から安心なさりご成仏なさいます。そしてこれからもあなたやご家族の皆様をいつも優しく見守っていて下さいます。
あなたの悲しみや後悔は尽きないでしょうけれどもどうかその子を心を込めてご供養なさって下さい、そしてその子に心からあなたの思いをお伝えなさって下さい。
その子は必ずあなたの思いをありのまま受けとめて優しくなぐさめて下さいます。
その子はいつもあなたに寄り添っていて下さいます。
あなたとその子とのご縁はこれからも永遠に続くのです。
いつの日かあなたがその天寿を全うなさる時には必ず仏様があなたをお導きなさって下さり、その子が沢山のご先祖様方を連れてあなたを優しく迎えて下さいますからね。そしてあなたとその子は喜び合うのですからね。
これからの日々毎朝お仏壇に向かいその子に心を込めて手を合わせてご供養なさって下さいね。いつもその子はあなたを見守っているのです。
一周忌法要もお墓参りもどうか心を込めて手を合わせて真心こめてご供養なさって下さい、悲しい時には涙してもいいのです。その子が必ずその涙を受けとめて下さいますからね。
あなたがこれからもその子と共に心健やかに皆さんと一緒に穏やかに生き抜いていかれます様心よりその子にお祈りさせて頂きますね。
仏さまに成ったお子さまをイメージする。
亡くなったいのちは
阿弥陀さまに救っていただけるんだと
私は信じています。
どのような死に様であろうと
どのような想いを残していたとしても
一切合切お救いくださるんだと
私が信じています。
また
あなたの悲しさ・後悔の念・自責の念も
阿弥陀さまが救ってくださるはずです。
でもやはり時間が必要でしょう。
それくらい
その辛いお気持ちが大きいからです。
その阿弥陀様の救いに遇うために
追悼供養をするのです。
あなたのそのお気持ちが
そのままもう供養になっていますよ。
亡き子と共に、生きていく
供養というのは、一周忌とか三回忌という法要のことだけを意味するものではありません。亡くなったご先祖様のために、今自分が生かされていることに感謝して、今日という日を今と言いう時間を大切に過ごし大切に生きることです。年回法要は、仏様の世界に居られるご先祖様が仏道を更に精進されることを祈り、自分自身が日々ご先祖に感謝している気持ちを報告する機会です。そして、亡くなられた方々の思い出を確認し、亡くなられた方々を自分自身の人生に中でどう生かしていくかを、考える機会でもあります。
お子様が亡くなられたことによる悲しみは深いと思います。大切な身内の者が亡くなった場合、自分の目の前から特に行ってしまったという喪失感に苛まれることが多いと思います。浄土とか極楽と言われると遥か遠い場所のことを考えてしまうと思います。でもね、民俗学的な立場から言いますと、日本人は亡き人々が身近なところに居ると考えて、亡き人を偲び亡き人を慕い、供養に努めてきました。
「基本的にすべての仏教徒に共通する「死後の世界」は、仏国土です。仏の国土です。仏の世界です。 仏教の教理から、亡き人は遠くにある極楽(仏国土)に行かれたと説明され納得したとしても、日本人の民俗的な霊魂観では「亡き人は身近なところに居てくれる」と考える人は多いのです。「草葉の陰から見守る」という言葉がありますが、「草葉の陰」とはお墓のことを言います。長く土葬が一般的であった時代の名残でしょう。亡き人は家の近くの墓地に眠り、そのから見守ってくれている。そういう感覚が一般的だったと思います。」
拙ブログ記事「やすらかに旅立ち、やすらかな世界へ 其の2」
私は檀家さんたちに葬儀の際に、葬儀で戒名をいただくのは言わば「仏様の学校への入学式です。」と説明してます。一周忌は一年目の終業式であり、二年目の始業式です。今回のお子様の場合は、年回供養が人生の年輪を重ねることになります。通常の形でお子様の成長を見ていくことは出来ませんが、心の中にわが子を抱き我が子と共にななさんが今後人生の年輪を重ねていきましょう。
参考 NHKこころの時代「不生不滅 道をもとめて 松原泰道」
http://h-kishi.sakura.ne.jp/kokoro-40.htm
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質問者からのお礼
たくさんの回答ありがとうございます。
何度も読ませていただきました。私の気持ちを救っていただけるような言葉をいくつもいただき、法要の時はしっかりと立って居ようと思いなおしたのですが、法要の前日、どうしようも辛くなり過呼吸をおこすなどし、急遽、お寺の方に法要のキャンセルをお願いするという大変な迷惑をおかけてしまいました。
たくさん回答いただいたのに、申し訳ありません。