心が汚れています
こんばんは、初めまして。
職場にすぐに怒鳴るおじいさんがいます。どうしても自分の意見を押し通そうとするので、いつも話が噛み合いません。他の人も閉口してしまいます。中には私と愚痴大会をする人もいます。そのおじいさんに今何かを言える人は職場には一人もいません。
私も何度も理不尽なことで怒鳴られてきました。
昨日もよく分からないことで怒鳴られました。そしてプチんとキレてしまった私は「死ね!くたばっちまえ」と叫んでしまいました。
今までの人生でも、こんな汚い言葉を吐いたことはない気がします。子供の頃の私でも、言ってはいけない言葉だと分かっていました。それなのにこの歳になって言ってしまいました。
以前の私なら言わなかったはずです。
実はこれだけではありません。
最近ここまでではありませんが怒りを自制できずに汚い言葉を使ってしまうことが多くあります。
歩きタバコをしている人に腹が立って舌打ちしたり、喫煙マナーの悪い人に聞こえるように「馬鹿」と言ったり……恥ずかしくて全部書ききれません。
会社への恨みも消えません。散々な目に遭わされたので、呪ってばかりいます。そんな自分も嫌です。
こんな汚い自分が恥ずかしく、情けなくてたまりません。
どうしたらきれいに生きられるでしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
慚愧があなたには備わっていますよ。
さつきさん、ご質問ありがとうございます。
さつきさんの気持ちが、職場のおじさんへの怒りではなく、
ご自分が汚い言葉を吐いたり、汚い感情を持っていること
に向かっているのが、とてもありがたいことだと思われます。
金子大栄という方がこのようなことをいわれました。
(http://www2.saganet.ne.jp/namo/sub9692zento.htm
「善と悪」を参考にいたしました。)
道徳や倫理の上からは、善悪を問題にするでしょうが、
仏教では、慚愧(ざんぎ)の心あるものを善といい、慚愧の心ないものを悪
というのが根本的なものです。
慚愧というのは恥じるという意味、慚愧の心を善根、慚愧の心なきを不善根
というのです。
したがって善とは何かということを明らかにするには、慚愧ということを
解釈しなければなりません。
あなたの汚い言葉やその言葉を吐いた行為は道徳・倫理としては悪いことです。
しかしながら、そのことを悔やんで、恥ずかしいと思っておいでである。
慚愧(「ざんぎ」と読むのが仏教的でしょうか)という善根をあなたは心に
もっておいでです。
慚愧無き者は人間ではないとまでいわれています。
そういう意味で、あなたはとても「人間」であり、
善根をお持ちなのです。
そういうことに気づかれると、素晴らしいことだと思いますよ。
質問者からのお礼
藤堂尚夫様
ありがとうございます。少し救われた気がします。
その慚愧の心を正しい方向に成長させ、今後汚い言葉を使わないようにしていきます。