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仕事で失敗することと自己嫌悪がつらいです。

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ほのかと申します。もうすぐ社会人2年目です。
この1年間いろいろな失敗をしながらも自分なりに仕事のやり方を見つけて頑張ってきました。

最近同期が私のいる店舗に配属になり、私が教育係を任されました。
任すといわれたときは、そんなことまでさせてもらえるようになった!と嬉しかったのですが、
いざしてみると上手に教えることができない、考えが甘く計画をしっかりたてていなかったため先輩に報告相談をすることができない、今まで出来ると思ってた仕事ができてなかった、などなどボロがどんどんでてきて私がいちばん注意されるようになってしまい、少しは得てたであろう信頼もなくなってしまったのではないかと思います。

また、私自身忘れっぽくひとつのことしかできないので、1つのことをはじめると周囲が見えなくなり、2つ目のことを言われると1つ目のことを忘れてしまいます。
それでもやろうとするとこんがらがり、思考も手も止まり全てを放棄してしまいます。
さらに、一手先をみて行動するということもできない。順序立てて説明することが下手。自分の考えを言葉にするのも下手。自分の考えがまとまらないから人に相談することも苦手。
人に何かを教えるということに本当に向いてないとわかり教育係という立場が辛いです。

失敗をしてしまうたびに無能な自分を責めて、自己嫌悪に陥ります。
本来相手の子を1番に考えてあげなければならないのに自分のことばかりになってしまいそれに対しても自己嫌悪。

いままで何も考えずに先輩に言われたことをしてそれで仕事ができるようなったつもりだったのだと思います。
こうなってしまったのは自業自得で新人のくせに努力をせず怠けたせいと言われればそれまでですし、その通りだと痛いほどわかっています。
仕事以前に人としてだめなところがありすぎるように感じます。自分のダメなところが毎日山のように見つかります。いつ先輩に見限られてしまうのかとびくびくしながら仕事をしています。どうしようもなくすべてから逃げ出してしまいたくなる日々です。
こんな私ですがどのような考え方をもてばもう一度がんばろうという気持ちをもてるのか、もう一度前向きに仕事に向き合えるようになるのか、ヒントをいただけませんでしょうか。

何が言いたいのかわかりにくい上に長ったらしい文章で申し訳ございません。よろしくお願いいたします。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

あ~あ という自分こそが あなたを苦しめている

自分を苦しめるのは、いつも自分です。
自分の自分への評価が自分を苦しめています。
神も仏も臆病者を嫌います。
自分に臆してはいけません。
自分を自分がそこねてはいけません。
自分をより高く評価するのは自分自身なのです。
精神の「神」とは、神様の神です。
この自分を不幸にする疫病神・貧乏神と、
この自分を幸せにする幸福の神、安らぎの神も同じ「神」です。
精神ですから。
あなたの中に同じ紙が同居している。
どっちが好きですか。
自分を幸せにする神か、不幸にする神か。
あなたの中で「あ~あ」といわせる疫病神を払いのけましょう。
「よっしゃ!」「負けてたまるか!」「この逆境をバネに!」という精神を奮い起こすのです。
一念発起!
自分の心を良き方へ導く精「神」を、自らの導きの神にしましょう。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

一念発起!
わたしにはその力が足りなかったのですね!
幸せの神さまとなかよくできるように、
不幸にする神さまにはすこしお休みしてもらえるように、
また明日からがんばります!!
ありがとうございました!!

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