頭が悪すぎて生きづらい
タイトルの通りです。
言われたことすらできない無能です。
英語は勉強したから一般的な日本人よりはできますが私より英語もできて法律や会計などの専門知識もある人なんて吐いて捨てるほどいます。それに英語だって得意ではなかったので成績が伸び悩みおかしな詐欺に引っかかってしまったこともあります。頭が悪すぎで嫌になります。
それに資格なんかとっても意味ない無能です。
会社では踏み台として使われるのが私の役割です。そんな役割を与えてもらって感謝すべきですがその役割すら辛いと思います。
性格が良ければ良いですが卑怯でウソをついたり逃げたりします。できなすぎてイライラして失礼な態度になってしまうこともあります。
友人もいないです。私大文系で全く仕事に役に立たない勉強をしたので、学校名は就職に役立ちましたがそれ以外何の役にも立っていなにのに学歴を自慢してしまいます。自分では自慢じゃなく、あんなに勉強したのに理系科目一切できない自分はおかしいと思っているのですがそれも自慢に聞こえるみたいで、自分に考える力がない人はムダな勉強しちゃうんだろうね。興味ないわー頑張ったって自慢したいんでしょ?とイヤミを言われる始末です。
勤務先は大して大きくないですが誰でも知っている会社なのでそれも自慢に聞こえるようです。
自慢しちゃうところあるから気をつけなきゃと思っているのですがつい自慢がイタイ人みたいなポジションになってしまいます。意地悪な誘導尋問みたいなのにも頭が悪いから乗ってしまいます。
本当にできる人間だったら良かったのになと思います。できるといっても大抵の人は私と比べて少し知恵が働くだけで天才と呼ばれるような人にしたら大した差ではないのでしょうけど、私にとっては何やっても何頑張っても無駄。生まれた時から人生勝負ついていたような感じがして辛いです。だったら何も頑張らずに最低限の暮らしで幸せと思える人間に生まれたかったなあと思います。
無能でもいいし、無能だから踏み台でも仕事あってありがたい。クビになっても生活保護でもいいやと無能さをもっとはっきり自覚して諦められる人になりたいです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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今日から変わる
こんにちは
あなたの質問の表題には「頭が悪すぎて生きづらい」と書いてあります。
私が思うに「生きづらい」状況は、「頭が悪」いとか「無能」だということが原因ではなく、あなたの皮肉っぽい、斜に構えた態度が原因だと思います。その態度が人とぶつかり合い、不愉快な反応を提起させるのです。
「会社では踏み台として使われる」、確かに組織の歯車という一面はあるでしょう。しかし、その観点では社長以下の従業員は皆同じ立場です。それを「踏み台」という言葉で自分を位置づける時点で既に自虐的です。「踏み台」同士である同僚がこんなネガティブな考えを話されると間違いなく不快になります。
また「踏み台」で扱われることへの強烈な不満、もっと言えば私はこんな「踏み台」で扱われるべきではないという強烈なプライドが見え隠れします。周囲から「頑張ったって自慢したいんでしょ?とイヤミを言われる」ということは、自分が「無能」ではない、こんなに自分は有能なのだ、有能であるはずなのだとアピールする姿勢がすでに顕著で、呆れられるレベルに受け止められいているのだと思います。
あなたは「本当にできる人間だったら良かったのにな」とも書いています。
やはりあなたは有能でなければならない、という強烈な憧れがある。
同時に無能かもしれない、という自分への強烈な不安と嫌悪がある。
あなたは、「就職に役立」つほどの「学校名」のある大学を卒業したのでしょう。その時点で「無能」であるはずがありません。
「一般的な日本人よりは」「英語」が出来るのでしょう。
この時点でも「無能」であるはずがありません。
あなたは「無能」ではない。
そして、自分の身の丈を超えて「有能」である必要は無い。
今の自分で納得する。
立場に満足する。
ネガティブに受け止めたり、表現するのを一切やめましょう。
無理に人にアピールしなくても、あなたは既にあなたでいいのです。
周囲はあなたにあなた以上を本来求めていません。
既に周囲は、あなたを「意地悪な誘導尋問みたい」な言葉で冷ややかに見ているかもしれません。けれども、あなたは今日から変わるのです。変わった所を周囲に見せるのです。その変わった所を一月、一年、十年積みかねると人は認めざるを得なくなります。
過去の自分をなかったことには出来ない。
けれども、これから違う自分になれます。
応援しています
質問者からのお礼
釋 悠水 様
有難いお言葉でした。
勉強は頑張りましたが就職に有利と思ってそうしたわけではなく、ゲームのような感覚で役になど立たなくても楽しいからやっていただけです。友人がいなかったので勉強していると気が紛れました。
将来やりたいことがあったわけでもすごく勉強したいことがあったわけでもないですが、文系科目は好きでしたので、偏差値の高い大学に入れば良い先生と話しの合う学生に出会えるかと思ってのことでした。
何も考えず親の言うとおりに素直に勉強しただけだろ、それってバカのすることじゃん。勉強したって無能は治らないのに必死にやっちゃってバカさ加減に呆れるということを言われます。楽しかったからいいんだよと言っても、役に立ってないから意味ないじゃん。やんなくていいんだよと否定されます。そういうのはしんどいし、それで何でバカにされなきゃいけないのか、仕事ができないのがダメなだけで学歴は関係ないだろうと思います。でも私が自慢げだから売り言葉に買い言葉なのかも知れません。
勉強は努力すれば大抵の人ができますが、仕事ができるかどうかはコミュニケーション能力や勘の良さや数学的センスで決まってしまうのでは、そしてそれは努力云々でどうにもならないことなのではと周りを見ていて感じます。それに無能な人がやる気を出すと迷惑をかけてしまいます。そういう努力で何ともできない不可抗力みたいにしてしまって逃げることを世の中では斜に構えているというのかも知れませんが、「そんなわけない」と否定してまた無駄な努力をしても仕事で成果を出さない限りそんなことしたって意味ないじゃんバカじゃんと言われるだけな気がします。
能力が高い人は高学歴なことも多いですが、そういう人は勉強したから有能になったのではなく、全般的に能力が高いから「勉強も」できたのではないでしょうか。
社長以外全員誰かの踏み台なのは全くその通りだと思います。私だって誰かを踏み台にして入社しました。その後は私はずっと誰かの踏み台ですが。無能すぎて誰かを助けることもできないからそれ以外使い道がないです。比較対象がいないと出世できないので、出世させたい人を無能の私の近くに連れてきて私は引き立て役として使われます。
そういう人間じゃなかったら良かったのにというやるせなさがつきまといます。自分にとっては身の丈=無能(仕事ができない)です。受け入れるしかないのにできなくて辛いです。私は間違いなく踏み台として扱われるにふさわしい人間なのに変なプライドでそれを認められないところが本当にイライラします。
もう友人とも両親とも縁を切りましたので見せる相手もいないですが、無能でもとりあえず受け入れてごちゃごちゃ言わず生きるということが変わるということなのかなと思います。
ありがとうございます。