気楽に生きるとはどういう意味回答受付中
気楽に生きるとはどういう意味なのでしょうか?
私は、小さな頃から厳しく育てられ、
自分や他人を許すことがとても難しく、
ですが、少し仏教の勉強をし始め、
瞑想や、瞑想しながらの自分の観察をし続けてきました。
どの私も存在する、それらをただ観るだけ。
判断せず、それも私。
と、教わった通りに観察をし続けてきました。
瞑想の時は観察がしやすいですが、
日常に戻ると、また頭の中は鬱でいっぱいになります。
あの人がこうしたのは、私を嫌ってるから!と被害妄想や、
私はダメな人間だ、といつも頭の中はネガティブです。
何人か先輩や夫に相談させていただいたところ、気楽にね。と言われることが多かったです。
私は真面目で一生懸命屋さんです。
いつも自分にムチをうち、足りない!足りない!と不足ばかりを自他共に押し付けてます。
最近、母性や慈悲を持ち、自他に優しくできることも増えましたが、
頭の中は常に何かを追いかけ、変えようとしてます。
もうそんな毎日に疲れました。
パーッ!と明るくなる時もあるけど、それは過覚醒な感じで、ネガティブもあるけど、ポジティブもあるみたいな安定さがほしいです。
でもネガティブな自分を認めることはとても難しく。
晴ればかりじゃない、曇りもある。と自分に言うものの上手くいきません。
もっと気楽に、自分らしく、優しく生きたいです。
このままでは、自分に執着ばかりで、周りの優しさや愛情に気づけません。
感謝と、気楽に生きる、を教えていただきたいです。
よろしくお願いします。
お坊さんからの回答 3件
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
気楽も気楽に考えないと気楽にならんから気楽ということもなく
気楽とは人によってさまざまな意味や解釈があろうかと思いますが、あなたに必要な気楽さと、禅仏教的な道理としての気楽さについてお話しますので、何か思い当たることがあればいつかビビビッとくるかもしれませんが来ないかもしれませんので、気楽に読んで、気楽に待ってみてください。
気楽とは、自分がこうしたい、自分にとってこう思う、自分が思う処ではきっとこうであろうというマイルールなく、自分の過干渉がない様子と言ってもよいでしょう。
あるいは、こちらの我や人、エゴ、自我を立てないで、その出来事のほうを主役にする事。元々自分が底に首を突っ込んでいたわけでもないんだから、誰のものでもない、誰のことでもない。
自分のことにしちゃうから人は他人事でも自分のことの様に思えてしまう。
それは事実と想いとの境界線があいまいになって混同しちゃっている状態です。
人は「わたくし」「わたくしルール」を立てるから、そのわたくしルールと現実とが違い過ぎて、期待外れで腹がたったり、残念がったりするんでしょう。
だから、そういう気持ちを無くして「気楽に」やればいいのです。
人は今そこに居る。
そこに居ながら居ることを知らない。
目がありながらも目を忘れ、耳がありながらも耳を忘れ、呼吸していながら呼吸していることを知らんのです。
この「知らん」ということを不識といい、非思量という。
識する事を用いない様子。
思考を離れてただの事実があるばかりの様子。
それが人間の安楽、気楽、安穏の地。ホームベースです。
何かをするときにこうしなければならないなんてことはもともとないんだよね。
だから、自分の中であーなんじゃないか、こーなんじゃないか、あーしなきゃ、こーしなきゃという思いが関与されない、干渉されない、ツッコミが淹れられる前の人のルールのない様子が一番のお気楽というわけでしょう。
坐禅も念仏も瞑想も、坐禅をしよう、念仏をしよう、瞑想をしようとすると、ちょっとちがうものになるもんなのです。
要らぬオマケが入り込む。要らぬおてつきがなされる。
だから、日常と違いができる。
ホントの瞑想や坐禅というのは日常との隔ての無くなるものです。
目に学ぶ、耳に学びましょう。
眼や耳は練習も本番もないでしょう。
プライベートもオフィシャルもない。
お気楽に!の気楽なんてこともない位にいつもありのままを映しているでしょう。
気楽に生きること
ブッダはいろんな欲望が、自分を苦しめるんだと説きました。しかし、人間はさまざまな煩悩や欲望を止めることができません。抜苦与楽(苦痛を取り除き、楽を与える)が仏教の本来の目的であります。あなたは、自分に厳しくすることで、余計に苦痛を感じてはいませんか。瞑想を日常の生活に取り入れることが、気持ちを楽にする方法ですが、実際にはなかなか難しいですね。厳しい修行を長年も続けられた高明なお坊さんですら、欲望を取り除くことができないとやっと分かったとおっしゃっています。浄土真宗の開祖である親鸞聖人は、不断煩悩得涅槃と言って、煩悩を断つ事無しに涅槃を得る(煩悩が自分を苦しめていることに気づくことで悟りに近づく)と説きました。では、どうすればいいのでしょうか。以下の<今の私に 今のあなたに>という詩をお読みください。何度か読まれると、気楽にいきる方法のヒントが見つかるかもしれません。気長に、気楽にお過ごしください。
<今の私に 今のあなたに>
気づきをもって、怒りや苦しみを見つめてください。
その気持ちは、観察することで、自然に消えていきます。
その源を探さないで、また、消すように努力もしないで。
そこで生まれる、静けさや落ち着きは、子供たちがそこに
いたいと思う安らぎを提供してくれます。
嬉しいと思う気持ちも、悲しいという気持ちも、あなたの感情にあります。
つまり、あなた自身が癒されない限り、他の誰をも癒すことなどできないのです。
さあ、やってみましょう。呼吸を観察することで、本来の自分に立ち戻ってみましょう。それが、自分だけでなく、他のものをも救うことができる方法なのです。
本当に大切なことは
拝読させて頂きました。
あなたのお考えやお気持ちを読ませて頂きました。日々の生活の中であなたが一生懸命にがんばっていて必死に生きていること、あれこれ考えて頭がいっぱいいっぱいになってしまっているのですね。
本当はあなたは「もっと気楽に、自分らしく、優しく生きたい。自分にばかり執着せずに周りの優しさや愛情に気づいて感謝しながら、気楽に生きる」たいと思っているのですね。あなたのその思いを心から受け止めさせて頂きます。
あなたがそう思い願うことはとても尊いことだと思います。あなたがそう心掛けて生きていこうとすればあなたの人生は心から豊かに幸せに満たされて生きることができると思います。
生きているとわかっていてもなかなかうまくいかない、思うとおりにいかないものです。ですから思い悩み失敗して悪戦苦闘を繰り返し苦しい思いをして生きなければならなくなってしまいます。
できれば悩んでいることもこだわっていることも少し手放してみることかもしれませんね。
今私達はスマホを持っています。便利で何でも思い通りにできる素晴らしい道具であるスマホ、しかしいつの間にかスマホに振り回されスマホにとらわれ、スマホによって苦しめられてしまっているように感じる時があります。
そうだったらいっそのことスマホをほっといていいのですし、スマホを手放してしまっていいのです。
もしかしたらそんなふうにあっさりと手放すことができたなら気楽に気軽におおらかに生きることができると思います。或いは本当に大切なものをありのまま受け止めて感じることができると思います。
昨日私は田舎道を走っていました。西の山並みに夕日が沈んいき赤々とした彼岸花を照らし出していました。夕日は雲とあいまってとても美しい空を描き出していました。本当に美しいものや大切なものは身近にあります。スマホの中にあるのではありません。
あなたがこれからの未来を心おおらかに健やかに生きることできますように、本当に大切な方やものを心から大切になさり、皆さんとお互いに慈しみや感謝の気持ちで豊かに幸せに生き抜いていかれます様に切に仏様や神様やご先祖様に祈っております。至心合掌
質問者からのお礼
皆様、本当にありがとうございます。
瞑想や観察を続けていきます。
どの私も愛おしい存在だ、ということを忘れていました。
皆様のご回答を見て、初心に戻った気持ちです。
ありがとうございました。