生きることは辛いのか回答受付中
お世話になっております。
以前の相談から月日は経ちましたが、自分の状況は変わっていません。定職につかないまま、将来に怯えながら、だらだらと日々を過ごしています。
最近思うのは、生きるとはうっすらと辛い状態が続いていくことではないかということです。
辛さに耐えながら、日々の小さな幸せを拾っている。そしてたまにやって来る大きな悲しみをに心を乱されながらも生きていく、それが人間ではないかと感じています。
ただ、昨今の日本では見ていて疲弊するニュースが増えるなど、平均的な辛さが増しているように思います。私はその辛さを凌いでいけるような強さや経済力などを持ちません。
自分が生きる上で、適職があればその辛さが少しはマシになると考えてきました。この何年かは自分の本当にしたいことを探していましたが、それにも疲れました。自分は人生で何か成したいのに、何も成せない。そんな気持ちが強いです。
そういえば、仏教に「一切皆苦」とあったのを思い出したりしながらこの文章を書いています。仏道に走るべきか、など考えもしますが、漱石の「門」のように私には何も見つけられないと思います。
最近は何が楽しくて生きているのかよくわからなくなってきました。私はどうすれば人生を立て直していくことができるのでしょうか。
お坊さんからの回答 3件
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
世界は自分が思う前の清浄な姿がある。人はそれを知らない。
人生を車の運転にたとえましょう。
ドライブの際、うっすらと苦しいつらい状態が続いているとすれば、それは「安全運転」とはいえません。
荷物を積んで積載オーバーなのかもしれません。
人生にはちゃんと安全運転はあります。
「問題の無い人」がちゃんと居るんですから。
心の安全運転ができる人はいるんです。
人生には安全運転はあるのに、人はその安全運転の仕方や方法を知らないだけです。意地を張って「違うやり方を選択してしまっていることがあるだけ」かもしれません。
なぜか。
車のドライビングスクールはあるのに、人生の安全運転のスクール(OTERA)で学ぶ機会に恵まれていないだけなのです。
人生は別に辛いことや苦しいことが前提ではありません。
それもこちらの思い込みです。
ただ思い通りにならないとか、こちらの願望や願いとは異なるトリッキーで予測不可能なことが人や世間や世界で起こっているだけなのです。
それを苦=ドゥッカというだけです。
世界の真実とはそんなダークなことばかりじゃありません。
だったらお釈迦様もその教えを学ぶ僧侶たちもとっくに病んでます。
「苦」とは仏教界でも誤解されてますが苦しみではないのです。
それは坐禅すればちゃんとわかります。坐禅とは座禅という修行をすることじゃなくて自分の考えを離れて自分や世界の真実をみつめることだからです。
そうすると、この世の真実は「こちらの願望や願い」とはまるで無縁でトリッキーで予測不能で自由で新鮮で不可思議でホヤホヤであたたかくて穏やかな世界が開かれます。知識や認識、理解、学びももちろん大事です。
ですが、人生の運転のドライバーとはそれぞれ各自、誰もがこの自分です。
あなたがどう思っても現実はあなたが思う以上に自由です。
私もかつてはあなたの様にこの世の中はつらい世界、いやな世界、苦しい世界と思っておりました。ですが、それは間違いでした。
本当の現実は思っていた以上に安らかでした。
それはこちら側のガツガツしたエゴが先立っているから、そこが見えないのです。
その本当の現実を知る方法こそが仏教の理論ではない、実践「仏道修行」なのです。
心の中で考えることや、あらわれる思いというものも、楽しい思い、悲しい思いとか、良い思い、悪い思いとか、煩悩とか雑念とか最初から「ない」のです。
無色透明の世界を求めましょう。世界は思ったより清らかですよ。
一切皆苦は救いの入り口(不謹慎のススメ)
一切皆苦に気付くことは、悟りや救いの入り口ですので、あなたがそのような考えに至ったことは喜ばしいことです。
今後、あなたには素晴らしい人徳が備わっていくことと期待できます。
それで、苦を見るときのコツですが、人生を瞬間ごととか、1秒ごとに区切って考えてみてください。
今の1秒間の苦しみはどの程度の苦しみなのかと、たまに点数化してみても良いですね。
ショック死や気絶するくらいの苦痛を10点満点とした場合、「今・ここ」の1秒間の苦は何点でしょうか。
ただ座っているだけでも、息を吸いたいという苦しみや息を吐きたいという苦しみが生じます。まぁ、これは0.5点くらいでしょうか。
朝起きたときに、「出かける支度をしなきゃ」と思う苦しみ、実際に布団から出る苦しみ、トイレに行きたくなる苦しみ、熱いコーヒーを飲みたい苦しみと口に付けたら熱い苦しみのせめぎ合い。
そのような細かい苦しみが次々と襲ってきて、その都度その都度対処し続けなければなりません。
まるで、毎秒毎秒「宿題」を出されているような状態。
ただ、思い返すと、小学生の多くは毎日宿題があっても笑って暮らしています。
大人になった私達も、毎秒の宿題に追われながらも隙間でふざけて遊んだりできるかも知れませんね。
悲しいはずのお葬式やお通夜の休憩中にも、遺族の多くは笑って雑談しています。
お寺の本堂で幼児が走り回ることもあります。
私は、これを不謹慎だとは思わずに、素晴らしいことだと思います。
拝読させて頂きました。
あなたは生きることが辛いとお感じなさっているのですね。
昨今の辛い状況もありあなたが生きることは辛さに耐えていくこのなのかと思っているのですね。詳細なあなたのことはわからなないですけれど、あなたがそうお感じなさることとてもわかるように感じます。
そうですね、生きることのその多くは辛いことばかりです、わずかの幸せを感じることもありますが、辛いことに耐えながら受け入れていかなければならないことがとても多いですよね。あなたがそうお感じなさるのももっとのだと思います。
あなたがそうお感じなさっているようなことを実は多くの方々が感じているでしょうし、今でも辛い思いを抱えていると思います。
生活も苦しく楽にならない方々もいるでしょう、何も思い通りにならずに悩み続けている方もいるでしょう、或いは今も戦争の中で恐れおののいて生死の境を生きている方もおられるでしょう。
それら全てとはなかなか言い切ることはできないかもしれませんが、その様な辛いことや苦しみを作り出しているのは私達人間に原因があるのです。
あなたがおっしゃる通り「一切皆苦」と仏様はお解きなさって下さいました。仏教的にその苦しみを作り出しているのは私達ですからね。
そこに救いがあるのか、救われる道があるのかと問われた時に、仏教の教えでは救われる教えがある、救われる道があると説いています。そして仏教には八万四千もの教えがあり道があると言われています、それだけ救いとなる道や方法があると言われているのです。
あなたがもしも仏教の教えを学んでいきたいと思うのであれば、その辛い思いや苦しみから救われる教えを信じていきたいと思う出のあれば、宜しければ少しずつ仏教の教えを知ってみて下さいね。そして様々な教えを学んだり法話を聞いてみて下さいね。
またここでも様々な思いをお話しなさって下さい。あなたを心よりお待ちしております。
あなたが思いをお話しなさりながら辛い思いが少しずつ軽くなり、少しずつでも健やかに生きることできます様に切に祈っております。至心合掌
質問者からのお礼
Kousyo Kuuyo Azuma様
ご回答ありがとうございます。
自分の考えに少しでも共感していただいて嬉しく思います。また胸が苦しくなるような事があれば質問させてもらいたいです。ありがとうございました。
願誉浄史様
ご回答ありがとうございます。
苦の見方を変えてみるというのは自分にない発想だと思いました。それがどういった効果を生み出すのかがまだはっきりと掴めていないですが、願誉浄史様の言葉をヒントに考えてみようと思います。
丹下覚元様
ご回答ありがとうございます。苦が苦しみでないという事は初めて知りました。今の自分はエゴにまみれ、世界を穿った見方でしか見れていないのだと思います。自分も穏やかな世界の姿を見られるようになりたいです。