人生について回答受付中
こんにちは。この度相談したい事は、大切なものの手放し方についてです。
私は新卒で教諭として採用され、長く働いてきました。教職は私の天職だと感じており、他人の喜ぶ顔が好きな事、生徒に関わる事(授業等)に手を抜けない性格から、かなり無理な働き方をしていましたが生徒と一緒に頑張ることが楽しく、目の前の生徒が喜んでくれることが嬉しくて気づけば10年以上も経っていました。
当時から慢性的な疲労に苦しんでいたので前兆はあったのですが、ある仕事で大きな目標を達成したあと、深刻なバーンアウト(燃え尽き症候群・鬱症状も併発)を経験し、身体が動かなくなりました(寝ると起き上がれなくなる、頭に常に靄がかかる、希死念慮など)。
当時の私は複数部署の長でもあり、管理職からは「休職は制度上可能だが非正規で回さなければならなくなる(から迷惑)」という意向もあり、現場に迷惑をかけることが精神的に辛く退職をしました。※現場は本当にギリギリなことも事実で、退職は最善の選択だったと思っています。
半年間症状と戦ってほんの少しづつ身体が動くようになってきたのですが、今後の自分の仕事をどうすべきか悩んでいます。昨今の報道にもあるように現場の状況は過酷なままで改善の見込みはありませんし、私が以前の健康状態に戻ることはないだろうという実感もあり、頭の中で「教育を手放したい」と考えつつもそれができません。
例えば学童や通信制の学校など、以前と違う形で関わる道もありますが、私の中には教壇に立つ自分(理想)がいて、それがアイデンティティでもあるのか他の形を許すことができません。本心は教育にこだわることから解放されたい、大切な教え子たちとの思い出をもってお別れしたいと思っているのですが手を離せない自分がとても辛いのです。
私は既に30代後半で新しい分野の就職もなかなか厳しく(実際に別業種に応募して、教師経験と年齢を理由に断られる事が続いています)以前の実績から教育関係だと就職し易いという常識に縛られている事もはっきり感じます。私を大変慕ってくれた生徒達にも申し訳ないというぼんやりした後ろめたさもあります。
手を離すことで自分が空っぽになることが怖いのだと思います。
「私は生き残った」という気持ちと「人生が終わればいいのに」という気持ちが交互にやってきます。私はどうすれば前を向いて生きていけるのでしょうか。
私は「私の好きなもの」が無い人生を送ってきたことのコンプレックスに苦しんでいます。
お坊さんからの回答 3件
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
手放すって失い捨ててしまうことではない。積み上げたものは宝物
子ども達の成長、人間形成を培う大事な発育の時期に、教師として関わることへの責任や喜び、また生徒たちの人生に自分が少なからず影響を与える存在であるというこにも誇りを感じますよね。
あなたが育ててこられた生徒さんは、あなたに愛されて自信と幸せを感じておられることでしょうね。
この世というのは常に変化していきます。教育現場も、社会情勢も移り変わり、指導者はアップデートを求め続けられます。得られる知識も大きいですが、重責でもありますね。
走り続けるのも良し!ただ、息切れした時に襲う身体の疲労感は、予測不可能かもしれません。自分の代わりはいませんから、しっかりとメンテナンスしたいものですね。
私も保育・教育の現場にいました。結婚を機に、生徒の卒業と同時に、私も教育現場から卒業しました。ただ、自分の中でやり切った感もありましたし、次の世界の扉が開かれていたのもあります。仏教は、「いのち」そのものを問う。自分には大きなテーマでした。
大学で教育を学び、そのまま現場へ。教育のこと以外、何も知らない私であったなと、知らされる毎日です。ですが、新しい環境で20年。自分の積み上げてきた経験を、伝わる機会ってあるものですよ。中学校で DVや命の授業をさせていただいたり、他団体への出講や講演のご縁もいただいています。
手放すって、失い捨ててしまうことではありません。積み上げた経験も、築いた関係も、壊すわけではないのです。あなたの中でこれからも大切にしていけば良いのではないかしら。
中にいた世界が居心地が良いと、外の世界へ出ることに怯えてしまいますが、あなたの知らない素晴らしい世界が広がっています。別世界ではなく、全てが繋がっているものでもあります。そんな一歩を、踏み出してみませんか。
大切なものを手放さないで
今の学校は教師が頑張れば頑張るほど、その教師に負担が集中し、損をする仕組みになっていると聞いたことがありますが、あなたの相談内容を読んで、まさにそうなんだと痛感させられました。
あなたが体を壊したのは、あなたが極めて優秀で、責任感の強い教師であることの裏返しに違いありません。
と同時に、このままでは学校現場から真面目で優秀な人材が一人もいなくなってしまうのではないかと、大きな危機感も抱いております。
これからお伝えすることは、あなたが求める回答と異なるかもしれませんが、どうかお許しください。
子供たちの喜ぶ顔が好きだというあなたにとって、教職はやはり天職だとおもわれます。
学校の教壇に立つこと以外の形で教育に携わることは、自分のプライドが許さないということですが、学校教育だけが教育ではありません。
むしろ、現在の日本の学校教育は多くの欠陥を抱え、それが社会の歪みとなってさまざまな問題を引き起こしているのではないですか。
あなたが学校教師として頑張った十余年については、きれいにさよならを告げ、心新たに別の舞台で教育に関わってみませんか。
そして、自分の人生をもう一度、子供たちの笑顔のために捧げませんか。
あなたを慕った教え子たちも、きっとそれを望んでいるものと思われます。
「大切なものを手放したい」というあなたに、「大切なものを手放すな」と申し上げるのは、回答者として失格かもしれませんが、あなたが再び教育の場で活躍されることを期待しています。
教職を手放すこと — 失う痛みと新しい種を育てる道
まず、あなたが教職に全身で向き合い尽くしてきたこと、その分裂する思いの苦しさを深く受け止めます。燃え尽きと鬱を伴う痛みは「辞めたくても辞められない」「辞めたいのに罪悪感がある」という矛盾として現れます。仏の教えで言えば、それは執着(執)と恐れ(畏)の搏動です。急がず、三つの実践をお勧めします。
小さな離別の儀式をする:教え子へ短い手紙を書く、教壇での写真を静かに焚く(または寺で読経する)など、象徴的に区切りをつけると心が整います。
身体優先の段階的復帰:まずは週数時間の関わり(非常勤・ボランティア・学習支援)で「教育する自分」を守りつつ負荷を下げる。完璧な切断ではなく、形を変える移行が自尊を助けます。
再定義のワーク:自分が「教えることで何を与えていたか」を言語化する(安心感を与える、人を育てる問いかけを作る等)。その核は形式を越えて生き続け、新しい場面で花開きます。
専門家(精神科・心理士)と連携しながら、職業相談や技術習得の選択肢を探してください。焦らず小さく実験し、結果で進路を決めること。罪悪感は「自分を責める声」です。僧の言葉を借りれば、あなたの「尽くした実」が消えることはありません。別の形でそれを結実させる許可を、自分に与えてください。
合掌