自分の生きてる意味がわからなくなりました
大学受験をしてから、やりたいことがわからなくなって、自分の生きてる意味がわからなくなりました。
大学受験をしていると、周りの人に「やりたいことは何?」と聞かれる機会が増えます。
私は特にやりたいこともなくて、でも大学に行かないと就職に苦労するだろうと思うから行きたいだけなので、志望校を最後まで決めきれませんでした。
親と話す機会も多くあって、そのたびにふらふらしてる自分を責められてるように感じます。
また、親の言っていることを素直に受け入れられず、とにかく否定から入ってしまいます。
こんな風にたいした特技もなくて、性格も悪くて特に意義のあるようなことをしてない自分は、生きてても死んでても同じような気がします。
でも死にたいわけではなくて、何もかも捨てて逃げちゃいたいみたいな感情に日々襲われます。
どうしたら、自分に生きている価値を見いだせますか?やりたいことってどういうことだと思いますか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
「とにかく否定」が問題
こんにちは。
悩んでおられる様子が伝わってきます。
ただ、先ずあなたの背景が分かりにくいのが正直なところです。
「大学受験をして」、つまりどちらかの大学を「受験」したのでしょう。
一方、「志望校を最後まで決めきれませんでした」とあります。
これは、第一志望とか希望の学部がはっきり決められなかったけど、一先ずは「受験」したという意味でしょうか。
「受験」はしたのですね。
その後の結果、或いはまだ「受験」中でしょうか。
「ふらふらしてる自分」と書いてありますが、今どういう立場なのだろうかと思いました。
周囲の人に「やりたいことは何?」と聞かれて、あなたは全く何も「やりたいこと」が無いですか。好きな分野、趣味から連想できないでしょうか。例えば、本が好きだったら文学部に行くなどです。
「大学に行かないと就職に苦労するだろうと思うから行きたいだけ」と書いています。大卒資格だけが欲しくて、そこでいろんな同級生や面と向かっての授業や実習に興味が無いのなら通信でも十分大卒は取れます。日中働きながら、通信で並行して勉強するという手がありますよ。
「親の言っていることを素直に受け入れられず、とにかく否定から入ってしまいます」と書いていますね。その詳しい内容は私には分かりません。ただ、以下は自分に当てはまるかどうかを考えて下さい。
「とにかく否定」はとても簡単です。
「否定」したら、自分の世界観、プライドを傷つけなくて済むし、相手の考えを汲み取ってより良いものを希求し、思考の積み重ねをする努力、心の汗をかく必要性がなくなるからです。
では、「否定」するなら何を肯定するの、と聞かれると「とにかく否定」の人は困ります。だから、あなたは「自分に生きている価値」「やりたいこと」という肯定するものがないのではないですか。
以下の可能性を考えて下さい。
では、なぜ「とにかく否定」をするのか。
それは「否定」をしている自分に、自己中心性に安住し、満足しようとするからです。高いプライドを壊す可能性のあるものを遠ざけようとするからです。
その心のことを煩悩と言います。
まず、自分の煩悩と向き合うべきではないでしょうか。
ご自身の宗旨は分かりませんが、宗派ごとの道筋が違います。
この先は、ご縁のある宗派に当たってみて下さい(字数制限)
質問者からのお礼
回答ありがとうございます。
受験は決めきれない中でも、ある程度興味のある分野がありそうなとこを受けました。
まだ受けた半分も結果は出ていませんが、成功したとは言い難い状況です。
浪人するにしても、進学するにしても、やりたい事もないまま進んでも意味がないなと思って、相談させていただきました。
確かに、小さい頃から勉強だけは誰よりもできたという自負があって、プライドが高いです。
親の話も、自分の考えがあってると思うことが多くて、見方を変えれば正しい意見でも論破しようとしてしまいます。
こうやって自分と向き合うと、自分の嫌なところがたくさん見えて、自信もなくなります。
あまり、宗教に熱心な家ではないのですが家族は代々、浄土真宗大谷派のお寺にお世話になっています。
どういう煩悩の向き合い方があるのですか?