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死にたくなる

回答数回答 1
有り難し有り難し 22

子供2人と妊娠5ヶ月です
毎日夜中に涙が出ます
死にたくなります。
こんな私が子供3人も授かれたことは
本当に嬉しいし宝物です。
でも毎日イライラしたり怒ってばかりで
良い母親ができません。
こんな私の所に産まれてきたことが
可哀想に思います。
私が死んだら子供はどうなるのかな。
母親なのに甘えるなって、思いますよね。
私は本当に最低で弱いです。
母親になる資格なかったです。
死ねるなら死んだ方が楽になれるのかな。って思ってしまいます。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

子供もあなたも毎日、毎回、毎瞬、新たに成長更新中。

内も子供が三人おりまして、三番目の子供が障害を抱えておりまして毎日が地獄です。出産時に医師によって目のすぐ下にメスを刺されて危うく失明ものでした。おかしいだろうと声を挙げたら「よくあることです」と話をそらされ、何かの薬を塗られましたがそれが災いしてか、今も障害を抱えています。この人為的な不条理があっても、子供は子供でそれを知らず、親も日々、毎日毎回新たな動きをするこどもに最高最上の対応をしなければなりません。
最高最上の対応。
それはあなたが傷つかず、お子様も傷つかず、誰も苦しまない事。
人間はオトナになるにつれてエゴも強くなり、自分の都合が第一優先になるものです。その頭の状態は変えることができます。
自分の都合ファーストは腹が立ちやすく、イライラしやすい。なんで自分だけがなんで自分だけが、とエゴを最優先いたします。
気がつくと、私中心目線。
ですが、もっとお子さんがいるのに、障害をお持ちのお子さんもいるのに大家族の家庭で一人で頑張って奮闘しているたくましいお母さんもいるものです。もちろん比較はできませんが、大事なのは今日の今からの私・あなたの心のリアクションなのです。毎回毎回、そのリアクションしても滑ってしまうような(自分も相手もすくわれないような)お笑いタレントのようなリアクションではなく、ストレートにまず受け止めてみるのです。子供が泣けば「あー、また。」という自分を優先するのではなく、子供の泣き声をその通りに聞いてみる。私を優先させていると、私のジャッジが先に出る。その前のキャッチを大事にするのです。キャッチにはジャッジは伴われません。上手なママはジャッジに心を向かわせず、キャッチのままに心を処しているので心が凹みません。傷ついた、凹んだ、というのは本当は【今新たにそのことを思い返した】だけでもあるのです。ならば今新たにキャッチ&リリースしてみましょう。
逆に、お子さんが今度はどんなことで泣くかな?と楽しみにしているぐらいに過ごしてみてください。来るもの拒まず、去るもの、過ぎたことを追わずに。
私たちの心の鏡はどんなものも映るものは映るままに。流れていったものはどこにも跡がありません。昔、禅僧の良寛さんは子供がいたずらで「良寛さん」と家にお声掛けをした際に何度も「はーい」と真新しく返事をしたそうです。前のことが無い。今は今のこととして。新たなこととして。

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今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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