努力する虚しさ
はじめまして。この度はお世話になります。
私は一昨年、働きすぎて体を壊し退職しました。体調が回復した後、就きたい仕事に活かせる資格を複数取得して職探しを始めました。しかしその矢先、新型コロナの感染が拡大し始めてしまいました。
いろんな転職サイトに登録し応募できる案件には応募してきましたが、仕事は決まらず、受け取った不採用通知は数十通。気づけば無職の期間も2年となり、ますます絶望的な状況です。
条件も以前の収入の半分以下で探すなど高望みしているわけではないのに、決まりません。資格もいくつか取得して、職務経歴書も一生懸命何度も何度も作り直して、できるだけの努力はしているのですが、書類選考すら通らず、すべて門前払い。
努力に何の意味があるのでしょうか。よく、「努力は裏切らない」とか「乗り越えられない試練は与えられない」などというけれど、すべて綺麗事だと思います。
希望のない人生に心底嫌気が差しました。
以前は毎月近所の神社へのお参りを欠かさない、実家に帰省した際は必ずお墓参りに行くなど、自分でも信心深い方だったと思います。しかし辛い状況が一向に改善せずむしろどんどん酷くなっていく中、今年に入ってからはお参りに行かないどころか、神仏や先祖を憎むようになってしまいました。
最近は、どのようにしたら最も人に迷惑をかけずに死ねるかを考えたりするようになりました。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
自身の「結論」出すのは止めて下さい…
『「努力は裏切らない」とか「乗り越えられない試練は与えられない」などというけれど、すべて綺麗事だと思います。』とおっしゃいます。
僧侶だけでなく、全ての人に対しての深い、強い疑問と受け止めました。私にも難しいですが、何らかのお答えを出さなくてはならないのでしょう。
この世には「努力は裏切らなかった」と受け止めているお方もたくさんいらっしゃいます。だからこの言葉が根強く残っているのです。
又一方であなたのような思いのお方もたくさんいらっしゃいます。
その違いは単に「自分の思うように事が運んだか、否か」だと思うのです。
『希望のない人生に心底嫌気が差しました』とはおっしゃいますが、あなたには「就職してきちんとお給料を頂く」という「希望がある」んですよね。やはり御自身の思い通りになっていかないことへの苦悩の表れでしょう。
『神社へのお参り』『必ずのお墓参り』をされ、『信心深い方だった』のに『辛い状況が一向に改善せずむしろどんどん酷くなっていく』から、ついに『お参りに行かないどころか、神仏や先祖を憎む』までになってしまったそうですが、お言葉ながら「神仏、ご先祖が就職するわけではありません」。全く関係のないことです。お参りは自己の祈願・請求からではなく、今私がここに存在していることへの感謝の思いからなさるべき行為です。そのことはきちんと申させて頂きます。
どうか、今一度 冷静に御自身の就職を見つめ直して下さい。希望の職種は何なのか、その為には自分に何(資格・経歴)が必要なのか。今それが無いならどうすればそれを取得できるか…どうか深く御自身を見つめ、考えて下さいませ。
ヤケを起こして、人生投げるのは…一言で申せば勿体ないのです。なぜなら、「人生は一度きり。しかもその時間は有限」だからです。
せっかく恵まれた命を大切になさって下さい。
どうか御自身のことを御自身で判断する(見限る)ことは決してなさらないで下さい。
「あなたは、自分のことそれ程わかっているわけではないだろう。しかし、その分、『私』があなたのことを知り抜いている。私がずっと一緒に居るから、あなたを支えていくから、どうか今一度しっかりと生きておくれ」とおっしゃるお方を仏様と申します。
その仏様がこれからもずっとあなたを導き、優しく包んで下さいます…。