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感謝と謝罪の気持ちを持ちたい、感じたい

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有り難し有り難し 13

 私の発する、感謝や謝罪の言葉は自分のために言っていると言われます。
「ありがとう」は、人に私ちゃんとしてるでしょ?というのを見せるためで、感謝の気持ちがない。「ごめんなさい」は、こうやって謝っておけばいいでしょ?と謝罪の気持ちがない。こんな風に聞こえる、伝わるそうです。

 苦労したことがない、なんの努力もせず何でも人や物のせい、人の気持ちも分からないし考えられないから、そういう気持ちが分からないんだ、とも言われます。

 思い返してみると、普通の人が感謝するであろう場面では、私にそれくらいしてくれて当然だろうと思い感謝の気持ちがわかず、謝るであろう場面で、謝らず自分を正当化するように相手を否定してしまい、謝罪の気持ちが持てません。今まで、素直に心の底から、「ありがとう」や「ごめんなさい」を言ったことが無い、つまり感謝と謝罪の気持ちを持ったことがないということに気付かされました。

 自分では、そんなつもりがなかったのですが、私の言動を説明してもらうと、とても有り難いことをしてくれていたのに、感謝もせずに相手の気持ちを踏みにじってしまったんだな。とか、とても酷いことをしていたのに、謝りもせず、自分が否定されたと思い相手を攻撃してしまった。と思うことばかりです。生まれてからずっと、そんなことばかり繰り返しています。

 感謝の気持ちも謝罪の気持ちも感じないため、私といると、存在を否定されているとしか思えず、死を考えることもある。こんな心の持ち主と関わるのはもう無理だ。と大切な人に言わせてしまったこともあります。

 今からでも、感謝や謝罪の気持ちを持てるよう、感じるようになりたいのです。どのようにしたら、持てるよう感じるようになるのでしょうか?

これ以上、私のせいで、大切な人を傷つけたくありません。どうかアドバイスをお願いいたします。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

どうか、人のために汗かいてみて下さい…

 気持ちの問題、心の問題はどうにでもなりそうで、実はどうにもなり難い、変えにくいものです。
 あなたが感謝や謝罪の感情を持ちにくいのは、あなただけのせいではありません。
 感情・心というものは育まれるものです。成長し、伸ばすべきものなのです。
 その意味では、大変に失礼ながら まだあなたの心は生育途上なのかも知れません。
 だからこそ、これからあなたがあなた御自身の心を育てましょうよ…タネを蒔き、水分や肥料をたくさん上げて、そして光にたくさん当ててあげましょう。
 つまりそれらは、御自身で色々な経験をするということです。
 汗をかいての労働、そして人の為に苦労を買って出る、何より他の人を思いやり、心身を遣うことです。
 そのことで、人からあなたに対して心からの感謝の言葉が発せられたときに、思わず「いえ、こちらこそ本当に有り難うございます」という感謝の思いに恵まれます。そして、それは他の何にも代え難い本当の喜びとなるのです。
 人間って単純な存在で、人に喜ばれると嬉しいのです。ホントそのことに尽きるのです。
 どうか、思い悩む前に人の為に動いてみて下さい。まずは御家族に対して…から始めて下さい。
 あなたが「真の喜び」に恵まれます様に…そして、そのことを仏様が念じて下さっています…。

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有り難し
おきもち

たくさん使ってみる

 こんばんは。問いを読んで、こちらも胸が掴まれるようでした。あなたが自分の行動について真摯に向き合っていることを感じたからです。この、「心が伴っていない、と受け取られる」のはとても辛いことですね。その評価は相手が下すもので、あなたが手出しすることはできないのですから。
 どのように、にしても相手が感じるのは言葉そのものよりもノンバーバルと呼ばれる「言い方や雰囲気、態度」によります。心そのものを見ることは(自分自身でさえ)できないのですから、見える部分、感じる部分から「この人の心は、こうなんだろうな」というのを類推しているのです。
 ですから、言い方を変えてみませんか?
 まずはたくさん使うことです。細かなことでも気づいたら「ありがとう」と言う。最初は小さく軽い感じの言葉かも知れませんが、それは小さな感謝の表明としても相応しいものです。
 それから、他人に頼み事をすることです。受けてくれたら、ゆっくりハッキリ、相手の目を見て「ありがとう」と言う。そして、それが届いたかを見て確認する。自分が言った後の相手を見ることで、その「ありがとう」を相手が受け取ってくれたかを確かめることができます。
 「それくらいしてくれて当然と思っていた」とありますが、これはあなたが赤ちゃんの時の記憶でしょう。無力で殆ど何もできないから、周りがお世話をする。あなたが赤ちゃんであれば成り立つ話です。しかし、成長して自分が何かできるようになるに従って、「ありがとう」という感謝を返して、相手との貸し借りがイーブンになっていきます。
 さて私は浄土宗の坊さんで、「南無阿弥陀仏」を称える宗派です。ではそれ、大声で言うのと小声で差があるのか?寝っ転がって言うのと正座で言うのは違うのか?テレビを見ながら言っても良いのか?
 良いのです。「たくさん称えているうちに、必要な心は備わってきますよ」というのです。不思議なのですが、たくさん使っていると言葉が心を整えることを感じます。いろんな時に自然と南無阿弥陀仏が口をつく。身につくのです。
 南無阿弥陀仏と「ありがとう」の違いは、仏様に対するものか、人に対するかということ。仏様は言い方を気にされないようですが、人は気にするもの(あなたも気にするでしょう?)。「ありがとう」をたくさん受け取ってもらった時、あなたの心は変わっているはずです。
 手遅れではありません。

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有り難し
おきもち

一般大学(一般的でもないが…)から大正大学の史学コースへ。そののちお寺。坊...
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質問者からのお礼

弘教寺 小林 覚城様

悩むよりも、まず人のために動いてみて下さい。本当にその通りですね。悩んでいても、何も変わらない。
頂いたお言葉通り、私はとても未熟です。そのため、人のためにと思ってしたことが、全て自分のためにしていると、いつも相手を不快にさせてしまいます。
そのことに気付かず、相手に嫌な思いをさせ、人のために何一つ出来ない生きる価値のない人間です。

このような私にお言葉を頂き、ありがとうございます。

少しは生きる価値のある人間になれるよう考えて行動します。とは言ったものの、どうししたらそうなれるのか正直分かりません。が、今のままでは何も変わらないので、自分のやるべきことを見つけてやってみます。

ありがとうございました。

光圓寺 佐藤 良文様

お礼が遅くなり、大変申し訳ございません。

ゆっくりハッキリ、相手の目を見て「ありがとう」と言う。そして、それが届いたかを見て確認する。自分が言った後の相手を見ることで、その「ありがとう」を相手が受け取ってくれたかを確かめることができます。

このお言葉に、ハッとさせられました。私はきちんと、相手の目を見て、「ありがとう」も「ごめんなさい」も言っていないことに気づきました。言ったあとの相手の反応に対して無関心でした。これでは、口だけの言葉ととられて当然だと思いました。色々と考えていると、自分の中で、感謝、謝罪することが怖いと思っている事も分かりました。心を込めて、言葉を口から出すよう心がけていきます。

手遅れではありません。との優しいお言葉も頂き、ありがとうございます。手遅れではないよ、何とかなるよと誰かに言ってもらいたかったのかもしれません。この一言に心が少し救われた気がしました。

本当にありがとうございました。

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