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夢を諦めたいのに諦めきれない

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いつもご回答をありがとうございます。また質問させてください。

小さい頃から絵を描くのが好きで、息をするように絵を描いていました。
それなりに上手かったので、大人や専門家からも褒められましたが、私の親はテストの点数でしか子供を評価しないような人間でした。
そのため、「良い大学へ行き」「安定した就職をして」「一生困らないように」と、小学生ぐらいから叩き込まれており、絵を描いていると怒られたり画材を隠されたりしました。他にも人格否定をされたり、テストの一点のミスを執拗に詰られたりと、何かと辛い幼少期でした。
それなりに勉強ができたのもあり、また周囲に流されたのもあって、高校の頃に絵筆は折りました。
親の言う通りの難関大学へ行き、堅い職を得て社会人となりましたが、環境に馴染めず逃げるように結婚して退社しました。
待っていたのは夫のモラハラです。子供を産んでからは衝突を繰り返し、耐えられなくなったため、現在は別居中です。子供は私が面倒を見ています。

先日、精神科で重度の鬱病と診断されました。更には元々、自閉症の傾向があるとも言われました。
今はほぼ無職で、主人からの仕送りで子供と三人の生活をしています。当然ながら、カツカツの生活です。
働かなければならないのは分かっていますが、鬱病がここまで進行すると求職どころではないと言われているのもあり、現実逃避を続けています。元々の性格も、会社員向きではないようです。

抗鬱薬を飲み始めた頃から、また絵を描き始めました。自然に手が動くので止めようがないのです。せっかくだからとインスタに投稿を始めたら、1か月経たないうちにフォロワーが500を超えて、承認欲求は満たされてきたと感じています。
ただ、今の私は絵を描くより社会復帰のために努力をするべき状況にあります。多少インスタが順調だとしても、今のところ収入に直結はしていません。
ですが、今日も時間を見付けては絵を描いています。画家になれるとは思っていませんが、手が止まりません。描きたい衝動に駆られて朝も早く目が覚めてしまうのです。

幼少期のトラウマがあるので、インナーチャイルドが暴走しているように思います。うまく宥めていかなければならないのは重々承知ですが、コントロールできません。
どうしたら現実に向き合えるのでしょうか。アドバイスを頂けると幸いです。泣きながらこの文を書いています。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

鬱という言葉を超えていく

まず鬱という言葉は人によってですが、言葉が負の意味に捉えられてしまうために言葉に縛られないことから。鬱の症状は症状。症状が出ている時が問題なだけでお笑い番組などを見ている時は忘れていたりしませんか?思い返せば、その心理に追い込まれるようになったのはあの苦しいことやストレス、不条理から離れようとして「そうなっていった」という背景があるはずです。思い出したくはありませんが、あの時、あの事、あの苦しみがあった。そしてそのことが余りにも嫌でそこから何とか離れたい(T_T)、逃れたいというこころの対処の在り方・心の動かし方から「鬱的な」心理に変化していった…、という心の「分岐点」があるはずです。別に今後も薬を飲んでいただいてもかまいません。鬱は薬によって治す・治るというより薬で症状を和らげつつ、心がその時にとってしまった「負のリアクション反応」にならないよう、心がそっちに「むかわない」ように流れをコントロールできるようになることが大事です。よって「心にそういう苦しい流れにさせないようにしてあげる」ことも大事なのです。嫌なことが起こりそうなときに出てくる、あの防衛反応としてあらわれる負のネガティブ反応を自身で静められるようになると症状も和らいでいくようになります。
お医者さんによってはリピーターを求めている人もいるので薬を飲むことを勧める方もおられますし、実際に薬を飲んだ方がいい人もおられるでしょう。ですが、人生には苦しみ・思い通りにならないことは今後もあるからこそ、自身の心の反応を最高のリアクション芸人ならぬ、最高の「リアクション道人」にすることが仏道なのです。100人が同じ苦しい経験をしたとします。100人中20人が心が病んだとします。その中でお釈迦さまや祖師さまがいたら周りの人たちと同じように負の反応をなされなかったのでは?その視点。そこに価値、活路、可能性を見出せる人こそが仏道修行を志す人というわけです。わたしは強くなりたい、苦しみから解放されたい、生老病死・四苦八苦から救われたいと強く願ったのでテラノムスコながら初めて菩提心が沸いて仏道を求めました。すると私のような✋パーでも救われる。救われた内容をかみ砕いて説いたら多くの人が救われるじゃぁありませんか。
文字数の関係でこれ以上はお伝え出来ませんが、求めればちゃんと救いはあるのです。人生も夢も求めれば必ず開かれます。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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