我々だけが正しい?
へタな日本語はすみません。日本住んでいるアメリカ人です。
アブラハム系の信仰は「排他主義」だとよく言われます。例えば、多くのクリスチャンやイスラム教徒は、"自分たちだけが正しい。他の宗教の信者は永遠に地獄に落ちる" と考えています。これは公式の教義です。
中世キリスト教の十字軍、イスラム教のジハード、「異端者」の殺害、「魔女」の焼却、「異教徒」の強制改宗など : 西洋の歴史では宗教的暴力はよく見られます。このような暴力は、アジアの歴史に、欧米に比べてめずらしいだと思います。
アブラハムの「排他主義」のせいで、私は家族が信仰するキリスト教に嫌悪感を抱くようになりました。"道徳的な神は、不信者を永遠に地獄で焼かせるようなことはしない"と思った, 子供ときから。
仏教に興味を持ち始めたのは、仏教の方が洗練されていると感じたからです。仏教の方が洗練されていて、心が広く感じられたからです。慈悲深い感じがしたからです。仏教の「方便」という考え方は、真理への道がいくつもあるということですよね。
しかし、日本の仏教にも若干の「排他主義」があるのではないでしょうか?例えば、親鸞上人は「このひどい時代には念仏だけは適切です」と考えていたそうですね。
日蓮上人の「四箇格言」は、他の宗派に対して特に批判的なようです:
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E7%AE%87%E6%A0%BC%E8%A8%80
私は親鸞聖人も日蓮上人も深く尊敬していますが、彼らの信者はお互いに尊敬し合えるのでしょうか?
では、21世紀はどうだろう。日本の宗派は調和しているのか、それとも「排他主義」による緊張感があるのか。
親鸞聖人と日蓮上人の両方の書物を愛読することは許されるのでしょうか?どちらの説も、透き通った真実を見ているような気がします。私は、真言宗と天台宗の思想も大好。一方だけを選ぶことは必要でしょうか? 心がズタズタに引き裂かれるような感覚です。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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他を認めること
拝読させて頂きました。
私は一人の浅い知識の僧侶ですので厳密な教えや解釈についてはご説明できません。ご了承下さい。
とはいえ「信仰」が他者を認めない・否定する・許さないというものであるならば「真の信仰」ではないと思います。
人それぞれですから信じることもさまざまかとは思います。ですから先ずそれぞれ他者の信仰を尊重して認め合っていくことが「真の信仰」だと思います。
それは「真理」だと思います。
それは西洋・東洋を問わずにどこでも歴史が証明しています。
「他のものを認めない・否定する・許さない」の行きつく先は殺し合いしかありません。(日本でも他者を認めないことで沢山の非道な行為や虐殺がありました。)
神も仏も、全てのものを救い導いて下さり、誰もが心から安らかに生きて幸せをもたらしてくれるもの、それが「神仏への真の信仰」です。
決して分け隔てなく慈しみ愛してくれるのが神仏の救いですから。現世でも来世でも。
お返事ありがとうございます。
私は以前アメリカに行った時にニューヨークのカトリック教会の神父さんに大変お世話になったことがあります。私はその当時未だ24才でしたが神父さんは70才を過ぎていました。彼はその年に引退なさったそうですが私に伝えてくれました。「神様も仏様も人を愛してくれるのは同じ、そして共に仲良く平和に生きる道は同じ」と教えてくれて私を受け入れてくれました。正しい信仰とはお互いを尊重して大切に信じることだと私はその神父さんから教わりました。それぞれの信仰を持ちながらも信じることはできると思います。ご質問ありがとうございました。またぜひご質問やご意見お願いいたします。至心合掌
浄土系も日蓮系も排他的独善的になりがちである
私は時宗系の浄土宗ですが、たしかにそういうところはありますね。
それは既存の仏教へのアンチテーゼとして、双方の宗派が成立したからと思っています。
ただ、今は融和的になりましたね。
ただ気をつけたいのは自分の教えで仏教を語ってしまいがちなこと。
浄土教と仏教は分けて考えなければいけません。
あまりにも浄土教のことなのに、仏教ではと語りがちです。
質問者からのお礼
お僧侶様の時間と思いやりに感謝します。
お僧侶様の賢明な言葉をよく考えてみます。
本当に感謝しています。
教えてくださってありがとうございます。お時間をいただきありがとうございました。私は鈍阿様の言葉をとても大切にしています。