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死にたい気持ちがきえません

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有り難し有り難し 5

おはようございます
ここ何ヵ月かまた、死にたい気持ちが浮上してきました。多少コロナ禍の影響 もあり、仕事がなくなり自宅待機になっています。
最初は良かったのですが、時間が過ぎていくうちに、不安感がでてきました。
昨年も同様に自宅待機期間があり、不安感がでてきましたが、その時は死にたい思いはありませんでした。
今回は死にたい気持ちが消えません。
仕事をしないと、仕事に復帰できるか
仕事ができるかの不安が増しています。
年齢もあり、新しい仕事も探していますが、上手くいっておりません。
これからの事を考えると、お金仕事、健康、両親の介護といろいろ出てきて、絶望的になっています。
自分の生き方が悪いのですが、今更ながら後悔しております。
死にたい気持ちを消したいのと、将来やの希望をもてるアドバイスをお願い致します。
訳のわからない事を書いていますが、
生きる希望をもてるようになりたいので


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

無我の引き出しを開ける

人は数十年生きていれば長年にわたって身に着けた経験、知識、技術が蓄えられているものです。
この蓄えられた力はそこにちょっとした縁を加えることで大きな頓智的な働きをなし、活路を切り開く力があるものです。
身に着けたスキルはどこに行っても時、場所、相手、状況を選ばず同じような働きをするものですから、手も声も働きも用い方次第。
コロナ下でも機能している分野の仕事は機能しています。
私自身も自分の知っていることをこちらで回答として発信しております。
人は自分の身に着けた知識、スキル、チカラ、チエ、能力は失われることはありません。
今はコロナで何をやっても報われないようなお気持ちではあろうかと思いますが、その状況下であってもあなたのお持ちの技術やスキルは決して失われません。パン屋さんがパンをこねる、調理する、焼く技術があればどこの国に行ってもそれは再現可能なわけです。
お持ちの技術、チカラ、チエ、スキルをまず一度職場で身に着けたものとしてとらえずに、どこでも使える千手観音のハンドと見直してアクションしてみてください。
千手観音は手に沢山の法具を持っています。
熱い人には風を、寒い人には火を、のどの乾く人には水を。
持っている力で随所に助けの手を伸ばし、活路を切り開く。悲しみを受け止めてほしい人には耳を傾け、うなずき、受け止め、共感をもってくれるのです。怒りを持つ人にはなだめ、理解、共感の心を傾け、人での足りない所には自ら足を運んで助けの活動をします。
実は、この千手観音とはあなたのこと。人類の誰もが持っている力。
この助けの働き、救いの働きを無我と言う。
無我とは自分が空っぽになるとか自分が無くなることではない。
「俺はもうだダメだ、もう何も自身がない、もう何をやってもダメだろう…。」と悩んでやる気もない心はみな「俺が」「そう思った」一時的なもの。
みな「俺が・自分が・わたしが」という主語が入り込んだ世界。
自分流のものの見方なのです。
人はこの自己、自身が主体ではありますが、この身心の上にあらわれる自分意識というものに苦しめられて自由な働きができなくなるようになるのです。
僧が坐禅・瞑想をする理由の一つはこの私という小さなワクの生ずる前の心に立ち返るためでもあります。あなたの才能、技術、能力を必要としてくださるところで場所を選ばず新天地を切り開いていただければと思います。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうこざいます。
今の状態は、自分中心の生き方になっています。狭い範囲しかみれていません。
直ぐには直せないかもしれませんが、今まで生きてきた事を生かして、新たに前に進んでいきます。
何処に私を必要としてくれる所がある事を信じて。

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