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「尊重する、受け入れる」がわからない

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人の思いを尊重する、受け入れるという感覚がわからなくなってきてしまいました。

最近、友人や恋人と話していて「価値観が違うから距離を置きたい」と思うことが増えてきました。

ある友人グループではよく恋愛の話で盛り上がるのですが、彼氏の自慢をしたり恋愛の傷を舐め合うような話ばかりで馬鹿らしく思えてきてしまいました。

また、現在お付き合いしている恋人に関しては、エンタメなどの「にわかファン」への悪口など、数々の斜に構えたような発言を聞いていて嫌な思いをしました。

これは最近(大学に入ってから)仲良くなった人に感じることが多く、もっと昔からの友人はたとえ価値観が違っても全く気にならず「そういうものか」と受け入れています。
また、上記のような価値観や言動の違いは、少し前は気にならなかったのに、ここ数ヶ月で急に気になりだした点ばかりです。

最も気になることは、これらの気になる点はすべて「過去または今の自分にもあてはまる部分がある」ということです。
自分自身も、時折他者に対して偉そうな発言をしてしまったり、過去の恋愛の失敗をくよくよ語っていた時期があるので、本来はお互い様だと思うべきですし、実害もないので受け入れるべきだと思います。しかし、どうしてもイライラしてしまうのです。

なぜ大学以降に知り合った人に限ってこのように思うことが増えたのか、なぜ自分にも当てはまる部分にイラついてしまうのか理解できず、自分の心の狭さが悲しくなってきます。

就職したばかりで慣れない環境にストレスがたまり、普段より神経質になっているのかもしれませんが、それだけではないような気もしています。

人の価値観の違いを受け入れるために、どのようなことを心がければいいのでしょうか。
違う、合わないと思ってしまったものは仕方ないのでしょうか。
価値観が違うところもまとめて相手の特徴として受け入れて、相手の良いところを見て付き合っていきたいです。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

「一水四見」

しょりさま

まあ、無理に受け入れる、合わせることはないでしょう。

無理しても余計なストレスになるだけです。

もともと私たちは例えば一つのモノを見ても、誰もが同じようにそのモノを見ているとは限らないものであります。

一つの物事でも、立場に応じて見方、捉え方が変わってしまう例えとして、仏教では「一水四見」という言葉がございます。

私たち人間にとっては「水」であっても、天人にとっては宝石、魚にとっては住処、餓鬼にとっては火と、それぞれで捉え方が異なってしまっているという例えです。

更に、唯識的に考えるならば、この世界の顕れの捉え方の複雑さについて、より知ることになります。

一つのモノを見ても、実は、それぞれ、過去世からの心(の阿頼耶識)に薫習された習気(薫りが染み付いたようにそのモノコトを捉える習性)が、そのモノを捉えているという複雑な構造を知ることができます。

要は、誰一人として、誰かと同じように、そのモノ・コトを捉えていることはもともとあり得ないということでもあります。

阿頼耶識のありようが当然に皆それぞれ指紋の如くに異なっているからであります。

まあ、難しいですので、また関心があれば。

ということで、本来、価値観を合わせる、同じ価値観になるということは土台無理なコトとして、あとはセロリの歌詞にあるように、できるだけがんばってみるわーであります。

川口英俊 合掌

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最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断しています。 https://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k

十人十色戦隊、スカレンジャー!

価値観や性格や姿の違いをカレーに譬えます。
カレーには
ニンジン🥕あり、
ピーマンあり、
肉🍖あり、
玉ねぎあり、
ジャガイモあり、
トウガラシ🌶あり。それで一つのカレー。
みんな同じでなくてみんないい味出しているのです。
♪みんな違ってみんないい♪
嫌な人がピーマンだったとしてもピーマンにも役割はあるものです。パプリカなんてピーマンのいいところをみんな持ってちゃうキャラですが、それでもピーマンがなければカレー、チンジャオロース、ホイコーローは映えないのです。
カレーも好き嫌いや価値観が異なれば、人によってジャガイモ要らない派、スープカレー派、ドライカレー派、スリランカカレー派、タイカレー派があります。
タイカレーだって「レッド!☀」「イエロー!🍍」「グリーン!🍃」「マッサマン!」
俺たち!私たち!誰かから好かれて誰かからは好かれないけど!みんな合わせて、十人十色戦隊スカレンジャー!
人の合う合わない・好き嫌いとは都合の一種。好きも都合。嫌いも都合。
生理的な嫌悪感もあるでしょうが、合う合わないは馬も反りも鞘も同じ!🐴ヒヒーン
それでも、相手のイイトコ発見!人とは長所や善処とのみ付き合えば活路あり。
そもそも「考え」や「価値観」というものの違いは、合わなくて当然です。他人に同じものを求めてもほぼ同じ人などは当然いないと思いましょう。すべての人間が自分とDNAもキャラも経験が違うのでもともと全く異なる。それでも…!…人には共通する心理がある。共有できる価値観がある。そこにヒント、答えがあります。
誰でも足を踏まれれば痛い。きつく言われれば悲しい。自分も痛いは相手も痛い。自分がうれしいは相手もうれしい。(*´Д`)✨(*´▽`*)
表向きの理由やタイトル、心の野菜名は異なっても、ちょっと深いところではちゃんと共通していることがあります。痛いことは痛い。いいことはイイ。
言葉を発する際も、花のように見る人、かぐ人を誰も傷つけない優しい言い方、生き方をすれば自分も相手も傷つきませんが、刃物のような相手を切りつける言い方は相手は痛いのです。自分もめぐりめぐって報いが来る。だから、他者とは価値観は異なっても、人として同じところで共通・共有し合える丁度いいこころの周波数を合わせ合う必要は誰にでもあるのではないでしょうか。
あなたも誰も傷つけない心になればいいのです。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

1年以上、お礼ができておらず申し訳ありません。
あれから、お二人のご回答いただいた内容を拝読させていただき、友人や職場の人々、恋人と向き合う中で、価値観を受け入れるという感覚が少しずつ分かってきました。

久しぶりの友人と会うという機会がこの頃は多く、色々な友人がいるけれど、全員が全員すべての価値観が合うわけではない。合わない部分は受け流して、合う部分を愛さないとしんどいなと思えてきました。

価値観を完全に合わせるのは根本的に無理。ではその上でどうするか。このように考えさせられたのはお二人のご回答がきっかけであったことは間違いありません。
誠にありがとうございました。

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