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上ばかり見てしまいます

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有り難し有り難し 24

私は鬱で何もできない日々を過ごしています。嫌なことばかりの人生です。貧乏な家に生まれ、良いこともなく生きてきました。貧しい国に生まれ餓死するかた、先進国に生まれても私より辛いかたもたくさんおられるのはわかりますが、私は裕福な家に生まれたかたや、友人のたくさんいるかた、バリバリ仕事して家庭にも恵まれてるかた、容姿のよいかた、そんな自分より上の人ばかり見て嫌になります。私は友人もなく、仕事もなく、家庭もなくお金もありません。テレビの向こうのタレントも羨ましく思ってしまいます。こんな嫌な自分の気持ちを絶ちきるにはどうすれば良いでしょうか。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

建設的にマイペースを貫く

こんにちは。
「鬱」とのことで、先ずはどうぞお大事になさってください。

色々と思い悩むでしょうが、あくまでもマイペース、ゴーイングマイウェイで行きませんか。

「上ばかり見てしまいます」とのことです。
私は、「上」をみること自体は、悪くないと思います。
ただ、それは自分の現状と連続性があり、建設的である限り、です。

私も「上」をみることはあります。

趣味で楽器をしていますが、あの素晴らしい演奏家(「上」)と同様の音を出したい、とよく考えます。そのために息の入れ方、音のイメージの仕方、音を出すタイミング・・・等々とその「上」に近づくための方法をいろいろ考えます。こう言った営みで「上」をみることは、むしろ望ましいことです。

ただ、全く自分の生活の現状とは直接連続していない、どうにも出来ないことで「上」をみることは建設的ではありません。

映画を見て、あのヒーローのように、宇宙飛行士のように、無敵の剣士のようにという気持ちに少しなることはあります。しかし、それは自分の生活とは全く違うところのもので、現実離れしています。ヒーローになれない現実に肩を落とすか、というとそうは思いません。

あなたには、「鬱」という現実があります。
その現実から、出来ること出来ないことを考えませんか。
その意味で、建設的にマイペースを貫く、のです。

そして、他者がどうであろうと、自分には自分の人生がある。
自分のオリジナルな人生を、ゴーイングマイウェイで貫く、のです。
他者がどうであれ、自分は自分で良いのだと思います。

どうぞ、お大事にされてください。
では。

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有り難し
おきもち

浄土真宗本願寺派報恩寺住職(兵庫県三木市) 本願寺派布教使 元本願寺布教研究専従職員 元龍谷大学講師 元篤志面接委員(法務省管轄) 真宗学修士、心理学学士 Fmみっきい(地元ラジオ局)出演中 趣味:サックス 2019年末頃から回答しています
応談できる時間帯は、その日によって違いますのでお確かめ下さい。 月曜日〜金曜日(祝日除く)13時〜21時 土曜、日曜、祝日 18時〜21時 お盆(8月1日〜15日)、お彼岸は対応できません。

どうせ上を見るなら他人や他所より自分史上の最上級を。

断ち切るとかそういう必要はありません。
そのままの自分で大丈夫なのだということを「本当に」やったことがないだけだと思います。どんな人であっても仏教の説くところの仏と言う事がきちんと道理としても実際の上でも明らかになるとかつてはあなた以上に自信もなかった私のようなポンコツ人間でもこのまんまの自分で本当に安らかで幸せなんだと思えるようになれるのです。それを誰もが成仏できるというのです。禅宗では見性とか成性とも申します。
特殊なことと誤解される方は多いですが、自分本来、人間本来の「サガ=性=本来性=人間の見解を離れた本来の性質」を仏と言うだけですから私、丹下のようなバカでも明らかになるのでぜひ、求めてみてください。
他を求めても比較の世界では持ってる人が持っちゃっているのでカチマケ優劣では追いつきませんからそんな道は捨ててください。それよりもこの五感六感のセンサーを自分史上、生まれて以来、最高最上のコンディションにすればいいのです。
その方法が、自分自身をして何もさせないという方法です。私の名前でYOUTUBEで動画を挙げていますので関心があればご覧頂ければと思います。
自分自身をして何もさせないとは何か。
見るもの聞こえるもの香るもの感じるもの、そして思うことにこちら側がお手つき無しのノーリアクションになること。その徹底。ノーリアクションとは冷たくスルーすることではなく、見えた通り、聞こえたとおりに処して、エゴの反応で良し悪しや是非善悪のジャッジをしない事。鬱もこの自分のいつもの負のリアクションを無自覚にしてしまっていることに気づいて、同じような心を悪く向かわせる習慣的な反応を慎めば鬱は鬱でも鬱であることも忘れて症状の時以外は鬱ですらなくなるようになりましょう。
心の作用、一念とはその発生時点においてその思いをこちら側で取り上げていないと言う事を知ってください。そして見極めてください。そして、触らないようになってみてください。
あなたの心の中であなたを苦しめる思いは実はあなたがその思いを拾い上げて鍋の中で焦げ付くほどに調理している面があります。
「誰のものでもないままに発生した想念は触らぬままにすることで誰のものでもないままに静かに消えていく」ものです。
この拾い上げる「私」を静かにさせることこそが仏の道であり、心が穏やかになり、心の病が軽減するための方法の一つです。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

今ある自分を受け入れて、小さな事でも幸せを見つけていけたらと思います。ありがとうございます。

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