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休み方のコツを知りたいです。

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お世話になっております。

この春社会人5年目に入った者で、介護職として福祉施設で働いています。
業務や職場にも大分慣れ、比較的楽しく働けていると思う反面、この頃は休日になるとは辛くて仕方がないです。

休日なのだから心身を休めれば良い日のはずなのに強い抵抗があります。仕事上で何か気がかりな事があって休めないというよりは、ただ単純に「何もせずゆっくり過ごすという事が苦手」です。何かしていないと落ち着かず不安になります。
かと言って特段趣味もなければ、昔から典型的なインドア派で外出機会も少ないです。より正確には、持病の関係で単独行動や外出への制限が今も少なからずあり、自身も万一の場合への恐怖の方が勝って外出自体を躊躇う傾向が昔からあります。実際、外出機会は月に1,2回友人と会う程度です。

もっと休日を有意義に過ごしたいと思い、自宅でできる趣味や資格勉強など調べたり試したりしていますが、どれも大して長続きしません。第一、仕事で心身が疲弊しているのは事実ですし、その状態では集中力も保たず結局それらを心から楽しむのも当然難しい事は分かっています。それでも尚、休むという事自体はなぜか不安です。家事手伝いをしている時が、辛うじて気持ちが少し楽になっていると思えます。
以前は気分転換にCDを借りて曲を入れていましたが、今はそれすら怖いです。「こんな事に時間を費やして良いのか」という不安が常にどこかで付き纏って素直に楽しめません。

比較的身体も神経も使う職種だと思うし、だからこそ休める時に休まないとという思いもありますが、休む事への不安が拭えません。休む勇気が出ません。仮に昼寝等できても、起きた時の罪悪感の方がかなり強く、結局疲れます。
今では休日の方がかえって疲労が蓄積されているようで、こんな事なら仕事している方が楽とさえ思う事が増えました。

何か新しい事に挑んでみたい気持ちもあります。でも、仮にそれで身体にこれ以上の負担がかかったら…、仕事に支障が出たら…、周りに迷惑をかけてしまったら…と、次々悪い考えばかりが浮かび結局動き出せません。自分と周囲のためにも休めるならきちんと休みたいのが本音です。なのに怖いです。

昔からいわゆる真面目人間で、且つ劣等感が強いタイプなのも影響しているかとは思います。
どうすれば休む事を少しでも素直に自分に許せるようになるでしょうか。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

参禅は 諸縁を放捨し 万事を休息す

自己の真相、本来の様相に立ち返ることで人は人間万人が有する心、悟り、ほとけ、涅槃というやすらいの心に至る(立ち返る)ことができます。
特殊なものではなく、人間が内なる能動意識を完全に「羯(休止)」させることでこの上なく満たされた気持ちになれるのです。赤ちゃんが休もうとかそういうことをやっているでしょうか。お母さんに抱かれてこの上ない安心の中で休んでおられますね。(-ω-)(´ー`)
人間は「なにかをやろう」としてしまう。
お金かけて自律神経を整えるリラックスCDとかを聴いてまた脳に縁を与えてしまう。人間が本当に休息するためには縁を放ち、捨ててしまう事。
この身に来ること、映ること、感じることに手を付けずに流しっぱなしにする。
「コン!」と鳴った音一つであっても消そう、放っておこうと「しなくても」終わり果てていく。了ずる、了(オワ)るのです。
人がそれを触らないからこそ、完了する。
内なる思いも拾い上げるあなたが静かになればどんなことが思われても心の中でこれを考えなければ…というテーマにも議題、話題にもならないまま流れ去っていく。了。オワるのです。
この心身はそれをやろう、考えようという意識があろうがなかろうが、一切のことを完全に終結・消滅・完了させていっているところがあるものです。そこに目をつけてみましょう。ニュースのトピック、今日の話題のようにあれこれを問題にして「取り上げる」なんてことは本来やらなくてもいいことなのです。すべての出来事、事実、案件は必ず現場でその時、その場、その状況下で完全に!終わり果てているでしょう。
どんな名曲の1フレーズでももう響きを終えているはずです。
終わったことをいつも反芻するかのように取り上げるのは人間が過ぎたことを後から拾い上げている作用なのです。
そうか、私の上では何をしなくてもすべての見たこと聞こえたことが完全に終わり果てていっているのだ!と自分の身心を見つめてみることです。
空に舞うこいのぼりであっても口を開けていつも新しい風を享受して飛翔しているのです。いつも新しい風なのです。
あなたが今そこで授かっている風(映像、音、香味、体感)はすべてが真新しい。✨
過ぎ去った「それ」ではないものなのです。
このように「休止(羯)」することで、人はやがてこの上ない安穏の境地に導かれていくようになるでしょう。関心をお持ちの方はお電話で。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ご回答ありがとうございます。
お礼が大変遅くなってしまい申し訳ありません。

真の休息のためには縁を捨てる事が必要というお言葉から、これまでの自分を見直すきっかけを頂きました。
たしかに、今までの自分は「休まなければ…」、「少しでも効率よく休むにはどうすれば…」等、常にそれを意識している部分がありました。
その意識がかえって休息を妨げる一要素となっていた事を痛感しました。

自分が何も意識せずとも、全ての事は常に了っていき、常に新しいそれであるという視点に立って物事を見るように努めたいです。

丁寧なご回答ありがとうございました。

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