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サイコパスは地獄行きが決まってる?

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私は、ドラマやニュース、インターネットなどでサイコパスが引き起こした殺人事件について調べてた時期がありました。
サイコパスは一言で言えば病気ですが、そんな彼らは将来的に不慮の事故や病で死んでしまった場合地獄に落ちるのか疑問に思いました。
もちろん、先天的な例のみならず、後天的な影響で人の感情が理解できなくなったり殺す事が好きになったりする人もいます。
例えば、事故とかで脳の理性を司る部分がしっかり機能しなくなり感情をうまく制御出来ずに人を殺してしまう人達とかです。
その他にも、今日までわかりきってない、精神病の類に罹り殺人をしたりする人達は、人を殺した罪で地獄に堕ちるのなら、初めっから彼らの地獄行きは決まってるようなものだと考えてしまいますが、お坊さんはどう考えていますでしょうか?教えて下さい。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

鬼滅の刃という漫画にはサイコパスのような鬼が沢山出てきます。その中で主人公の妹の禰󠄀豆子だけは鬼になっても人を食べないように頑張っています。人に噛みつかないように竹筒を口に咥えて。
生まれながら脳の病で無意識に人を傷付ける人は残念ながらその罪の報いを受けることになるでしょう。地獄にも行くかもしれません。
それを避けるには脳の病の治療法ができるまで耐えるしかないのだと思います。禰󠄀豆子がじっと耐えていたように。
また自分で善悪の判断がつかない場合は法律やルールや戒律などを善悪の判断基準にしてくれたらいいと思います。
お釈迦様は言いました「耐えることより優れた修行はない」と。
欲の衝動に耐えることは難しいかもしれませんが、できるだけ法律などを犯さないように耐えて欲しいと願っています。
そうすれば仏様やご先祖様が導いてくれると思っています。

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私は浄土宗の坊さんです。 少しでも何か参考になればと思って回答していますが、無知未熟ゆえに質問を読ませていただくことしかできないことも多々ありますがお許しください。 回答は私個人の意見や解釈もあり、場合によっては浄土宗の教義とは少し異なることもあるということをご了承ください。 また、寺の紹介ページに電話相談についても紹介していますのでどなたでも気兼ねなくご利用ください。 ハスノハのお坊さんがもっと増えますように。 合掌 南無阿弥陀仏

サイコパス的心理をこそ地獄という それを生み出す原因悪を断つ

人間の猟奇性ということにだけ焦点を当ててみましょう。
罪を憎んで人を憎まずという視点で。
もちろんサイコパスの猟奇的な犯罪は本人の意思による犯罪ですからその人が悪いです。ですが、人間には誰にでもサイコパスのような猟奇性に向かう可能性はあるのです。幼少期からいじめられたり、否定されたり、毒づかれたりの日々を過ごせばその子はいずれ心を強くしようと念じて時によからぬ方向に向かうのでしょう。それをサイコパスと呼ぶべきかどうかは各自のご判断にお任せしますが、ここで我々人間が注視すべき点は、そういう人間性を生み出した背景、原因。
人間は誰でも、悪意に染まる、やさぐれる、グレる、hasunohaならぬハスの端、MADすみっコぐらしな心理になってしまうもの。そこに優しさ、愛、慈悲がないからでしょう。人としての尊厳を認める精神がないから心が病む。
外国のスラム街や軍の非道の背景も、おおよそ人間個人のMADなエゴ悪意のルールに基づいて相手の人権を考えない心を基としている。ブラック企業も家庭も同じ。トップがパワハラ人間ならば部下もMADになる。その連鎖が本当の地獄の始まりだと思います。これからその人が死後に地獄に行くとかの話ではない。
今現実で苦しんで地獄を与えられている世界が今あるのだから六道地蔵の精神であなたがそういう悲しい地獄を直してあげたい!と衆生済度の精神、救済精神、菩提心という善導精神を今、発起するのです。それがこの世の地獄をなくすための唯一の方法です。地獄を放置、見て見ぬふりすることは誰でもできる。あいつは地獄に落ちろ!という心理は誰でもあることでしょうが、今後の地獄を生み出すよりもその前に地獄を生み出す人間関係をより良い方向に「こっちに行った方がいいよ」と素直純粋に良い価値観を共有することが地獄を浄化する作用となるのです。
サイコパスも魔が差した人も悪事をなすその心は同じ人間、同じような人間心理。陥ってしまった人間の他の存在を軽視してしまう悪い心。
そういう心に向かうことは誰にでもあるのですから、諸病を治療する薬がそれぞれ存在するように、人の心を悪意に向かわせない活動がもっと増えるべきなのです。
人が悪意の人間性に陥ってしまう原因がある。だから可能な限りMAD心理が生まれないよう、あなたも世の助け、悪意の軌道修正、「それでも僕は悪意に染まらない精神」を保持してください。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

念仏すれば極楽浄土に往生できる

浄土宗では、悪人でも善人でも、サイコパスでも、南無阿弥陀仏と念仏を称(とな)えれば極楽浄土に往生できると考えます。
法然上人の説によれば、阿弥陀仏は私達がどんな罪を犯しても私達を見捨てないそうです。ただし、阿弥陀仏は私達の罪を見たら嘆き、私達の善行為を見たら喜ばれるそうです。
石は水に沈みますが、船に乗れば海を渡れます。
阿弥陀仏の本願の船に乗れば、悪人もサイコパスも極楽浄土に往生できるのです。
極楽浄土は悟りやすい環境であり、皆が善人に生まれ変われる場所です。
前世がサイコパスでも極楽浄土では光り輝く菩薩様になって仏教を学べるので、安心ですね。

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有り難し
おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための教えです。まだまだ未熟者の凡夫ですがよろしくお願いします。

質問者からのお礼

分かりやすい例も加えての説明ありがとうございました。
お陰でスッキリしました。

願誉浄史様、三宅聖章様も今回コメントしてくださりありがとうございました。

丹下覚元様の素晴らしいお考えを聞けて十分勉強になりました。
確かにその通りだと思いました。

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