自分の煩悩について考えました。
3月に21年間お世話になった実家を出て同棲を始めて今に至るのですが、同棲相手は金遣いが最悪で自分の貯金は底をつき、元カノを家に呼ぶために私を外へ追いやったりなどがあって、自分はすっかり煩悩の塊のようになってしまったところで、仏教の教えを改めて考えるようになりました。
煩悩をなくすことで人は穏やかな生活を送ることができると説く教えをはじめは「感情を殺すこと」「自己を抑えてうまくやり過ごすこと」と思っていたのですが、ネットや日本史の教科書で仏教について、歴史や自分の宗派である曹洞宗の成り立ちや考え方について知るうちに、「煩悩をなくす」とは煩悩を完全に失くすことではなく、「煩悩と向き合う自分を作ること」だというところに行き着き、自分のためにというのはもちろんなのですが、自分に関わってくれる人たちなど周りに安心や幸せを与えられるということだと思ったのですが、これは実際の仏教の教えとは違うのでしょうか。
今自分は「自分の幸せのため」にあたたかい人間関係を築くことや、自分が心から幸せに思うため、自分をまず見直したいと思っています。
その手始めとして、今ある生活は話だけすると確かに最悪なのですが、それでも楽しくないわけではないので、この同棲生活をより良くしたいと考えていますが、私のこの煩悩についての考え方はまた違うものなのでしょうか。
ご教示よろしくお願いいたします。
1. 感情的になり周りが見えなくなること 2. 様々な面で怠惰で面倒くさくなることによって、前向きになれないこと 3. 自分のことをよく理解しておらず、未だ生きづらさを抱えてしまっていること
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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執着も煩悩
今の彼氏や同棲生活への執着もまた煩悩です。
執着を捨てて真っ白な頭の中で彼と出会い直したとしたら、それでも再びその彼とお付き合いするべきだと考えるでしょうか?
欲・怒り・怠け・プライドなども煩悩です。
これらの煩悩がないならどう行動するかをシミュレーションしてから、でも私には煩悩があるから折り合いをつけてこのようにする、と人生を選択してみてはどうでしょうか。
ごめんなさい。ちょっと壮絶すぎて、なんて言えば良いのか…。
考えた末の結論だとは重々承知しているつもりなのですが、失礼ながら、そんな相手と同棲を続けようと思われている、ハトさんすごいです。
私自身は浄土真宗の僧侶ゆえ、曹洞宗の煩悩観はわかりませんが、煩悩と向き合うって、そんな素敵な彼と同棲を続けることなんですか?
質問者からのお礼
怒りのまま、嫉妬のまま、愚痴だけを垂れ流して生きている状態は確かに今の同棲の環境が自分をそうしているのは間違いないのですが、
相手は相手の考えがあり、相手も自分の知らないところで怒りや何か自分に不満を抱えているかもしれないと思いました。
今両親がコロナにかかってしまい、実家に帰るにも帰れず、なんとかこの家で自分は生活をしなければなりません。
それで、同棲ってやっぱりするなら、安心感やなにか自分に良い働きをしないといて気持ち良くないなと思って、それならまず動き出すのは自分からじゃないと意味がないと思い、自分の煩悩について考えました。
自分は正直言って今その同棲相手に対し、何かを求めたり、相手がどうしようも無いのはもう仕方ないので、何か期待をしてることはないんです。
ただ少しでも自分のために生きる、その先の幸せにこの愚痴や不満は必要ないなと思って煩悩と向き合おうと思ったのですが、やっぱり変でしょうか(苦笑)