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自分に働ける場所などあるのか。

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有り難し有り難し 18

初めて質問させて頂きます。
私は、今年4月に新卒で入社した会社を退職しました。しかし、今になって後悔しています。勢いで退職してしまったのだな、と後から気づいたからです。

高校時代にできた彼女との別れ、次第に崩れていく人間関係、新たな恋も失敗、職場で1番話し易かった先輩の退職。
このような辛い出来事の積み重なりだけで私は退職してしまったのだと。

離職から2ヶ月が過ぎようとしていますが、取り返しのつかないことをしてしまったと非常に後悔し、自己否定をやめられません。転職をするにしても、退職理由がわからなくて何もできないのです。

こんな私に働ける場所などあるのでしょうか。そして、これからはどのように生きていけば良いのでしょうか。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

外の相手を問題にするのは内なるわが心ならばこそ

自己否定をしている時の心の動かしは自己否定という内容の心の動かし方をしているだけなのです。
それが心のワンアクション。
それをその時やっている。
他のことをやっている時は他の一行・一念をやっている。
それをしながらご飯とか食べてません。食べられません。
それをしながらトイレとかしてませんし、仮に他のことを大道芸人のように同時にできたとしても、どちらかがおろそかになっているものでしょう。

この文字も自己否定しながら見ているなんてことはないはずですよ。
嫌なこと、つらいことがあると、そのことが今も根強く、強烈に残っているので他のことも同じように「ダメなんじゃねぇか」と思えちゃうこととは思いますが、それは幻、まやかし、妄想、混同化です。
何かが起こると影響を受けやすい、ダメージを受けやすい、心がそのことに流されやすいということがあなたにとっての立て直すべき心のポイントではないかと思います。

自分には働ける場所などあるのだろうか?
そう考えることで自分に納得がいく理由付けをしようとしてしまっているのです。
問題はどこか。
物事を問題視する、そのわが心を問題視すればよいのです。
どうせ、俺なんて働けるところなんてない、とネガティブな反応をしているその自分自身の心。
そこを問題したことはないはずでしょう。
人が人として人生の初段、黒帯になるためにはまずそこを見つめて、わが心を八風吹けども動ぜず、八難あれどもものともせずという心に向かわせるようにすることです。
天にかかる月は雨にぬれず、風にも動じない。
そういう心に人間はなれるのですよ。
そのためにも何かがあればすぐに騒ぐ、動じる、びくつく、へこむ、腹が立つ、その過剰反応な心の知覚過敏に薬用歯磨きシュミテクトを塗ることです。
塗ったところで効き目はありませんし、どこに塗りゃいいのかもわからんでしょう。
だからこそ、自分の心に「自分自身が向き合う。
今から何かが起こった時に騒ぎのモグラがひょこひょこ暴れだす、そこをみつめること。
あいつが、あれが、あのことが、と騒ぎ、問題にするその心の持ち主はどこのだれだ?
あれだけ問題になったあの事が今問題になっていないということは、だれがその時まで問題にして、今問題になってないのは何でなのか?
そういう微細なところを問い続けてブラつく心をしっかり定めることです。
参禅はそのためにこそある。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

あせらずおおらかに

拝読させて頂きました。
あなたが新卒でお勤めになられた職場を退職なさってしまってとても後悔しているお気持ちそしてこれからの不安な思いを読ませて頂きました。
ご退職なさるのにあなた自身の生活や人間関係や職場での嫌なことなどいろんなことが重なり合ってあなたとしてはいたたまれなくなってしまったのかもしれません。それはある意味やむを得なかったのかとも思います。
人生生きていれば自分だけのことでは済まされないですし、いろんなつながりやタイミングもあるものです。それにあなたはお勤めになってそれ程経験もありませんでしょうから、いろんなトラブルの波ももろに受けてしまって、あなた自身も心にも大きな影響を及ぼしてしまったのかとも思います。

職場では仲の良い人ばかりではありませんし、気の合った人や尊敬できる人ばかりが集まっていたり残るわけではありません。逆に自分にとって合わない人や難しい人とのかかわりも大きくなってしまうこともままありますからね。

あなたが退職を決めた状況や心のあり様は正確にはわからないですが、多かれ少なかれあなたにとってなかなか受け入れがたいことや嫌なことばかりが続いて行きがかり上辞めざるを得なくなってしまったところに追い込まれてしまったのかとも思います。それはやむを得ないことでもあります。

人生ではそういう巡り合わせもありますし、そうならざるを得ない場合もありますし、自分から進んでそういう選択をしてしまう時もあるのです。

今あなたにとっては後悔があるでしょう、とはいえそれはもはや過ぎ去った過去です。今あれこれと考えてもきりの無いことですし、過去に戻ることはできません。
ですからそういうこともあったとしてあなたの一つの経験として学習していきましょう。そうして一度スッキリリセットしてしまいましょう。

どうかあわてないでこれからに向かって腰を据えて未来を迎えましょう。これからあなたにはいろんな出会いもありますし、いろんな出来事やご縁が巡ってきます。あせらずにいろいろ見ながらあなたの未来を選択していきましょうね。必ずあなたには次のステップがありますし、あなたにとって望ましい仕事や職場や同僚の方々とのご縁はめぐってきますからね。

あなたがこれから素晴らしいご縁に恵まれて毎日を心豊かに充実した人生を歩んでいかれます様心から祈ってます。あなたを心から応援してます。

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有り難し
おきもち

個別相談可能
脱サラして10年が経ちました。栃木県佐野市の一向寺に勤めています。(佐野ラーメンが有名な処です。)これからも皆様のご質問に対して誠心誠意回答させて頂きたいと存じます。まだまだ修行中の身ですので至らぬ点あろうかとは存じますが共に精進して参りましょうね。お寺にもお気軽に遊びに来てください。
ご相談は朝から午後5時まで受け付けております。 人間関係や恋愛のお悩み、自殺願望、大切な方の死に直面した苦しみなど、どんな内容でも構いません。一人で抱え込まずに、ぜひお辛いお気持ちを吐き出してください。 仏様や神様、ご先祖様は、いつもあなたを見守り、聞いてくださっています。あなたが少しでも穏やかな気持ちになれるお手伝いをさせていただきます。

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